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 ある者は静かに、ある者は罵声を吐きながら、それぞれ個性的な調子で歩いていく集団をなんとなしに見送っていたクリスは、ふと、妙な視線を感じて眉根を寄せた。
「レイ?」
 そんなクリスを見て、ヴェラが訝しげに首を傾ける。だがそれに答える前に、正解が向こうの方からやってきた。人垣が割れ、迷惑そうな目に見守られながら、額に包帯を巻いた男がクリスの方に近づいてきている。
 クリスははっきりと困惑した。明らかに知らぬ男ではあるが、それはあくまでクリスティンの知識であって、クリストファーの立場でもそうとは限らない。
 久々の感覚、そして緊張に、クリスの顔は自然強ばっていく。人の多い場所には知己の存在があるということを失念していた自分を罵り、彼は滲んだ汗を掌の中に閉じこめた。
「ああ、――やっぱりあんただ」
 いよいよ近づいてきた男が、クリスを見上げてにやりと口端を曲げる。
「昨日は助かったよ」
「昨日?」
「ははぁ、まぁ、判らんだろうな」
 たじろぐクリスに、男は僅かに表情を改めた。
「加勢に来てくれただろ。助かった」
「失礼だが、あなたは?」
「おっと、悪い。俺はジェフ・モルダーだ。収容施設警備の専任でな。別棟の担当だったんだが、逃げてくる奴らを捕まえようとしてて、このザマだ」
 言い、額の包帯を指で突きながら自嘲気味に笑う。
 とりあえず、クリストファーの知り合いではなかったことに胸をなで下ろしたクリスだが、自己紹介を受けても思い出すところがない。昨夜、もとい今日の闇の中で出会った人々の顔など、覚える以前に見えてなかったというのが実情だ。
 ただ、おおまかに見当は付く。おそらくは例の腕の立つ男たちと戦っていた集団の中のひとりだ。様子から察するに、クリスが割り込んだことにより敵からの追撃を免れたといったところだろう。
「丁寧にどうも。クリストファー・レイ、歩兵師団所属です。申し訳ないが、あの男は取り逃がしてしまった」
「……そうか。まぁ、あの相手じゃあな。大きな怪我を負わなかっただけでも良しってところだ」
「他の人たちはどうです?」
「動けないほどの怪我はなかったよ。相手が逃げるのに専念したたからかも知れないが……、こっちもけして油断してたわけじゃないんだがなぁ」
 モルダーが意見年齢と階級章を合わせて見るに、軍部の中でも目立って強いというわけではないだろう。だが相手が単なるやくざ者であるなら、そうそう後れを取ることはないはずだ。その彼が為す術もなくあしらわれたとすれば、逃げた男が検挙された内のその他大勢とは一線を画す者だった、と言わざるを得ない。
 つまりはやはり大物を取り逃がしたということで、改めて自覚を促された形となったクリスは、後悔と力不足に悄然と肩を落とした。
「まぁ、よっぽど腕の立つ奴でも、経験がないと無理だっただろうな」
「と、言うと?」
「あんた、直接戦ったか?」
「いや」
「そうか。それなら判らんだろうが、奴はたぶん、両腕が使える。左で剣を使われるだけでもやりにくいもんだが、こう、打ち合った後に右からきた短剣の一撃が予想外だったな」
「だが武器の類は、捕らえられた際に没収されるだろう? 剣は奪ったとして、なぜそんなものを」
「そいつは、愚問だな」
 皮肉っぽく口端を歪め、男が軽く首を横に振る。
「あの混乱の中、敵味方の区別が正確についたか? 爆弾を外から投げ込んだ奴が居るって話もあるくらいだ。軍服着て走り回ってる奴が敵だったとしてもおかしくはない」
「だが」
「あんた、若いよ。五年前の混乱のときには、寡黙で真面目だと思ってた奴が人身売買に一枚噛んでたなんて話もよく聞いた。何らかの弱みを握られて脅迫されてってのが殆どだったらしいが、現実に起こってることは背景にあるものがどうであれ、覆しようがないものだからな」
 クリスは唇を引き結び、目を伏せた。モルダーは周りは全て敵と思え、などとけしかけているわけではない。ただ、起こりうる可能性を感情で消去するな、と忠告しているのだ。
 言っていることは判る。だがクリスには難しい。目に見えるものを信じたがっていると言うよりは、一見友好的に見えるものや組織として仲間であるとされているものの、どれを疑えばいいのか判らないのだ。
 そんな彼の様子を見て、モルダーはどこか遠く懐かしそうに目を細めた。
「本音を言えば、こういう仕事をしてるとな、何事も疑ってみた方が結果が出たときに楽だってことだ」
 モルダーには、そういった経験があるということだろう。
「悪いな。礼を言うだけのつもりだったんだが、余計なことを言った」
「いや……」
「まぁ、お互い無事で良かったよ。それじゃ、――」
 手を挙げ、別れの文句を言いかけたモルダーが、そのままの姿勢で唐突に動きを止めた。
「隊長! どこに――って、あ、隊長!」
「煩い、聞こえてる」
「急にふらっといなくなるからですよ! ……あの、こちらは?」
 親しげにモルダーへと真っ直ぐに向けられていた視線が、横に逸れてクリスへと移る。僅かに苦笑を浮かべ、クリスはモルダーの部下らしき青年へと会釈した。
「気にしないでくれ。用は済んだ」
「え、……そうなんですか?」
「ああ。それより、何かあったのか?」
「あ、はい、それが、ちょっとしつこく話を聞けと食いついてくる奴がいまして――……」
 切羽詰まった、というよりは困惑の成分の強い顔で、男はモルダーに用件を伝えた。立ち去るタイミングを外し、なんとなしに耳を傾けていたクリスは、最後まで聞いてヴェラと顔を見合わせる。
 話の内容はと言えば、要するに数多ある苦情処理に関する訴えに過ぎない。だが問題は、その苦情のもととなっている人物だ。会話の断片を拾うに、どうやら件の牢に収容されていた人物であるらしい。
 クリスとヴェラの微妙な表情には気付かず、部下が話し終えるのを待って、モルダーは苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てるように言った。
「はぁ、そんなもん、無視すればいいだろうが」
「そうなんですけど、しつこくって。そのせいで、同じ部屋に入れた奴らが文句言って収拾付かないんですよ」
「個室に放り込め――はしないか」
「ええ。余ってる部屋なんてありません」
 周囲へ悪影響を与える者への対策としては、まず第一に隔離という措置をとられるケースが多い。懲罰及び強制的に沈静を試みることもあるが、それは相応の被害が出た際或いは出ると見越される場合の最終手段だ。これは人道的な意味合いで選択されるというよりは、強引な手法が同じく処罰対象となる者たちの悪感情を刺激することを避けるためである。


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