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11.


翌日とその翌々日は、否応なしに休息の日となった。疲労か、例の発作の延長線上のものか、発熱をしてベッドに放り込まれたのである。
「お疲れなのですわ」
 妊娠して以降、方々から無理を禁じられているエマは、ここぞとばかりにクリスの世話を焼く。病気が伝染ると危険という周囲の意見を悉く無視する姿勢が、どことなく憂さ晴らしに近い様子であるのは単なる気のせいではないだろう。
 だが、嬉しそうにあれこれと話しかけてくるエマを見ると、クリスティンの死の残滓が消えていくのが判る。若干の寂しさはあるが、これはよい傾向なのだろう。
 気怠さに何度も姿勢を変えるクリスを窘める顔は、いっぱしの母親のそれだ。
「病み上がりに、無理しすぎです」
「……もうひと月以上経過しているのだが」
「あら、以前より仕事熱心ですのに?」
「……」
 この沈黙は、返答に詰まったというよりは動揺の意味合いが強い。それがエマに伝わることがなかったのは幸いか。
(職場環境が変わったわけだし、それでごまかせてるとは思うんだけど)
 だが、のんびり事を構えている状況ではないとは言え、以前のクリスティンとの相違が目立つのは如何にも拙い。
(でもまぁ、そうか、兄様はあんな性格だったし、どうせ激務も涼しい顔で淡々とやってたんだろうなぁ)
 内部に入って初めて判ることであるが、自己鍛錬に緊急呼び出しにと、軍の仕事は規定の任務以上の義務も多く存外に忙しい。今は尚更、といったところだろう。体力は頑健な男のものとは言え、覚醒直後に軍への完全復帰を命じられていたなら、精神的に負荷の高いクリスにはついていけなかったに違いない。そういう意味では、一旦無職になったことは僥倖だったと見るべきか。
(でも、残り三ヶ月と少しか……)
 クリストファーの復帰を賭けた御前試合までの残日数を思い、クリスはため息を吐く。それまでに何とか、否、いっそこの状態で腕を磨き勉強をした方が見込みがあるのでは――と考え、はっとして彼は勢いよく頭振った。
 どうも少し、弱気になっているようだ。
 沈黙したクリスを見て気を利かせたのか、何度も大人しく休んでいるように言い含め、エマが部屋を去っていく。静に閉められた扉の向こうで軽快な足音が遠ざかっていくのを聞きながら、クリスはゆっくりと上体を起こした。そうして何もない宙へと視線を向ける。
「――ゲッシュ」
 低い声が僅かに響き、天井へと吸い込まれていく。数日前から呼びかけにも応じることのなかった彼だが、なんとなしに、今日は近くに居るような気がした。
 一秒、二秒、どこというでもなく見上げたまま、クリスは静かに呼吸だけを繰り返す。やがて、そんな彼の様子に根負けしたかのうように、窓から離れた壁際で、小さな光がぽつりぽつりと染み出した。
「久しぶりだな」
 皮肉でもなく、クリスは落ち着いた声を出す。
「近くにいるんじゃなかったのか?」
「……ごめん」
 はっきりと青年の形を取った「導き人」、ゲッシュが、浮かない表情のままにクリスに頭を下げる。それを見て片方の眉を上げ、クリスは皮肉気に口角を上げた。
「お前は、私を見届けるんじゃなかったのか?」
「その……つもりだよ」
「では何故、ここ何日か呼びかけに応えなかった。どこへ居ても駆けつける、そう言っただろう」
「……」
 ゲッシュは顔を歪ませる。その沈黙を肯定とみなし、クリスは深々とため息を吐いた。
「別に、責めてるわけじゃない。ただ、どういうつもりかと聞きたかったんだ。ゲッシュの仲間も見たことだしね」
「……それは」
 如何にも気まずそうに、だがどことなく焦った様子でゲッシュが何か言いかける。だがそれは言葉になることはなく、いつしか彼の唇は引き結ばれた。
 間を置いて、譲歩するようにクリスが口を開く。
「もとはと言えば、私がややこしい状況を作り出したのが悪いんだ。だから、私にゲッシュを責めることはできないよ。だけど、私だってわざとこの状況を引き延ばしてるわけじゃない」
「判ってる。だけど……」
「仲間が、急き立てる?」
「それもある、けど」
「けど?」
 消えそうな語尾を繰り返せば、ゲッシュは完全に項垂れた。言いたくないのか言えないのか、或いはその両方か。
 若干の苛立ちを覚えながら、クリスは手を置いていたシーツを握りしめた。
「気に入らないのなら、消滅とやらをさせればいいだろう?」
「っ、それは」
「私はそれで、なんだっけか、もう輪廻の環に戻れないことになるらしいが、自業自得なんだから仕方がない」
「それは――できない」
「? 最初に、最悪の方法だがそういう結果もあるって言ったじゃないか」
「あの時は……、でも、今は出来ない」
「どういうことだ?」
「ごめん、――ちょっと、ごめん」
「おい!」
 答えにならない謝罪を繰り返し、突然ゲッシュは姿を消した。焦り、クリスは宙に手を伸ばすが、それで捕まえられるような相手ではない。光の靄の中で掻いた指先はむなしく落ち、クリスは瞬いて唖然と口を開く。
 あまりに突然のことに、何がどうなったのかと考える余地もない。
 会話の弾む楽しい雰囲気とは真逆だったことは確かだ。だが、ゲッシュの逃亡はあまりにも唐突だった。言い濁されたぶんも含め、余計に状況が判らなくなったとしか言いようがない。
「……何、今のは」
 そのままクリスは、階下からエマの声が上がるまで、手を中途半端な位置に上げたまま固まっていた。

 *

「よ、調子はどうだ?」
 自宅療養三日目の夕方、そろそろ商店が店を閉め始めるという頃合いに、軽い調子で現れたのはアントニーである。
 エマから見ても比較的親しい知人だった彼は、既に何度も来たことがあるのだろう、勝手知ったる様子で誰に断ることもなく居間の椅子に腰を掛けた。読んでいた件の資料を注目されないように極めてさりげなく脇に退け、クリスは何のようかとソファから身を起こす。


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