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「そろそろ、体も鈍ってきたんじゃないか?」
「それはそうだが、お前、仕事は?」
「夜勤明けで寝て起きたところだよ。今日も夜から仕事。その前の散歩、――っと、わりぃ、気にすんなって」
「いや、俺が悪い。また、隊長には謝りに行く」
 本来なら、アントニーが昨夜こなしてきた夜勤は、クリスとペアで働く予定だったものだ。事実を正確に言えば、クリスという予備役を夜勤に組み込むために、アントニーにとっては予定外に突然振られた勤務だったと言うべきか。
 翌日にまで及んだ連続勤務と、その後の軽い体調不良を慮り「療養要」として勤務から外したのは上司であるガードナーだが、立つことも無理というほどの状況ではなかったために、クリスとしては些か心苦しいところである。むろん、ガードナーが甘い判断をしたというよりは、どうにも不安定なクリスを切り捨てたという意味合いの方が強い。
(兄様への評価、だだ下がりじゃないといいけど……)
 発熱に思考が定まらなかったときはそれどころではなかったが、こうして改めてアントニーという元同僚を見るに、置いて行かれているという認識が強くわき起こる。しっかりしなければ、という義務にも似た思いと共に、クリスは掌を強く握りしめた。
「それで、何か急用でもあるのか?」
「お前なぁ。見舞いに来ちゃ駄目なのかよ」
「いや、それほどの重病でもないだろ」
 ぽり、と照れ臭さ半分に頬を掻けば、アントニーは湿った胡乱気な目を向けた。そうして、自覚がないとばかりにため息を吐く。
「死にかけてひと月ちょいだろ。判りやすい病気だの怪我だのだったら放っておくけどな、原因不明の状態だったってんだから、心配するだろうが」
「あ、……ああ」
「安易な無理なんてしてたら、クリスティンが怒り狂うぞ」
 突然出た名前に何度か瞬き、クリスは説明を求めるようにアントニーをまじまじと見返した。
「あいつが生きてたら、って話だよ。自分はすぐに無茶するくせに、人には……って、クリスティンの話を出すのはキツイか?」
「いや、大丈夫だが」
 そんなに破天荒な行動をしていたのだろうかと、内心で冷や汗をかく。まさかこういう形で、他人から自分の評価を聞くとは思わなかった、とどこか複雑な心境である。
(聞きたいような、もっと聞けば凹みそうな予感がするような)
 さすがに自ら話題を振る気にはなれず、曖昧な笑みでやり過ごす。
「そういや、墓参りは行った?」
「ああ、エマに連れられて」
「あー……、エマはクリスティンにべったりだったもんな。下手すりゃ、クリスや親父さんよりも嘆いてたんじゃないか?」
 覚えのある事実に、さすがに苦笑する。
 と、噂をすれば、のジンクスがここでも働いたのか、このタイミングで部屋の扉を叩く音が小さく響いた。外からの声に応えれば、使用人のカミラを連れたエマが姿を見せる。後ろのカミラが渋い顔をしているところ見れば、また重いティーセットを自ら運ぼうとしていたのだろう。叱るような顔で見れば、エマは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「私の名前が聞こえたように思いましたけど、何を話していたんです?」
「エマがクリスティンに懐いてたって話だよ」
 揶揄するようにアントニーが答えれば、なんだそんなことかと言わんばかりに、エマは呆れたような目を向ける。
「クリスティンは私の憧れでしたもの。当然です」
「うわぁ、言い切った」
 引き攣った笑みを浮かべるアントニーに激しく同意し、クリスはカミラの配った紅茶に口を付けた。俯き堪えてはいるが、何の羞恥プレイだと叫びたい。
 そんな彼の悲鳴など気付いた様子もなく、エマは更に追い打ちを掛ける。
「私だけじゃありません。モニカだって、カレンだってそう言ってます」
 内向的と言える彼女だが、クリスを通して比較的親しい友人であるアントニーにはあまり遠慮するところがない。アントニーの、如何にもお人好しな人懐こい調子が一役買っていることもあるだろう。
 きっぱりと宣言するように告げたエマに、アントニーは自ら両腕をさすってみせる。そして、おそるおそると言った調子で口を開いた。
「大丈夫か、お前ら?」
「あら、少なくとも、アントニーよりもててましたよ」
「マジか。そりゃあいつは男女、……いや、すみません。男なんか目じゃないって感じだったけどなぁ」
「すらっとしてて格好良くて、時々怖かったけどいつもは優しくて頼りになって、はぁ、クリスが男だったら良かったのにと何回思ったかわかりません」
「それ単にガサツな……はい、申し訳ございません。ってか、エマ、さすがに旦那を前にしてそれはないんじゃないか?」
 本人がこの世にいないと思っているぶん言いやすくなっているのか、好き放題に喋るふたりを横に、クリスはもはや、穴があったら入って引きこもりたい心境である。手にしたカップが小刻みに揺れているのは気のせいか。僅かばかりでも自分に対する評価を聞きたいような、と考えた数分前を声高に罵って無関心を装うのが精一杯といったところだ。
 早く話題を変えて欲しいという切なる願いなど通じるわけもなく、エマがにっこりと笑いながら、当然のようにクリスに話を振った。
「あら、あなたはそんなこと、気になさいませんわよね?」
「ああ、……いや、まぁ……」
 どう返事しろと言うのか。
「まぁ、いいんじゃないのか?」
「クリス、お前情けないぞ」
 疲れた様子で突っ込みを入れるアントニーを軽く睨み、一言多い口を噤ませる。
 それより、と無理矢理話題を変えるべく、クリスはおもむろに咳払いをした。
「今話に出たモニカ・ストーンだが、元気にしているのか?」
 些か唐突に過ぎたか、部屋の隅に控えていたカミラまでが首を傾げてクリスを見遣る。
「いや、事故を目撃した加減で、ちょっと調子が悪かったと聞いたんだが」
「あー……、そういうことか。うん、ああ、元気だぜ?」
 話を合わせろとばかりに歯を剥けば、アントニーはわざとらしく何度も頷いた。
「あー、うん、でも最近顔見てないな。帰りにちょっと寄ってみるかなぁ」
「俺も行く」
「え。お前体調不良は」
「充分休んだ。これ以上寝ている方がおかしくなる。動き始めの散歩に、彼女の家までは丁度良い」
 言い切れば、アントニーは無言で天を仰いだ。そんなにも迷惑かと軽く足の甲を踏み、出かけるべく立ち上がる。
「……夕食までには戻ってきてくださいね」
 そんなクリスにエマは、子供を窘めるような、どこか諦めるような微笑を浮かべて告げた。おや、と思い一度は逸らせた視線を戻せば、気のせいか、元の表情に戻っている。一瞬眉を顰めたクリスだったが、結局は深く考えることなくぶっきらぼうに短く返事を返すことにした。
「わかってる」
 判ってないと呟いたのはアントニーで、それを無視するかのようにクリスは外出の準備を整えた。正直を言えば、今エマと顔を合わせているのが気恥ずかしいのだ。嫌われていない、はっきりと好かれていると判るのは嬉しいが、それにも度というものがある。文句なしの絶賛を当然のように受け止められるような下地は、クリスにはない。アントニーの突っ込みはむしろ非常にありがたいものだった。


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