[]  [目次]  [



「やめろよ、ふたりとも。フランク、モニカとちょっと喋ろうと思って来たのは俺だけだ。クリスは実家に行くつもりで、途中まで俺と一緒に来た。それだけだ」
 アントニーにしては流暢な嘘が、硬い声となってフランクを叩く。
「それとも、裏道でもない人通りの多いこの道を通っちゃいけないってのか?」
「人の家の前で長話をする理由がそれか?」
「話の内容については謝る。だけど、そういう話になったから立ち止まっただけで、クリスがモニカをどうの、ということはない」
「どうだか」
 フランクは懐疑的だ。実際、クリスはモニカの様子を伺いにやって来たのだ。事情も知らず、クリスティンとしての感情と気軽さで友人の顔を見にいくつもりだった、などとは言い訳にもならない。否、言い訳にもできない。
 故にクリスは、緩く頭振り、アントニーの腕を引いた。
「行こう」
「クリス――」
「終わったことだ。紛らわしい真似をしてしまったことには謝罪する」
「なに」
「失礼する」
 気色ばむフランクに向け、クリスは一切の表情を消したまま頭を少し下げる。そのまま相手の様子を窺おうともせず踵を返せば、腕を掴まれていたアントニーはたたらを踏んだようだった。
 逃げるのか、と吐き捨てるような声が背中を叩く。近づくなと言ったのはそちらだと思わぬでもないが、構えば構うほど厄介な状況になること想像に難くない。要はフランクの目の届かないところで会うこともなければ、これ以上何も起こらないはずだ。それがお互いのためというものだろう。
 しばらくそのままに進み、いよいよクリスの実家が近くなってきた頃、アントニーを引いていた手に抵抗を感じた。
「お前なぁ、ホントにここまで来る必要はなかったろ」
 呆れたような声は、いつもと変わらぬ調子である。
「それとも、さすがに気まずかったか?」
「睨まれているのを承知で、彼の前に居続けなければならない理由がない」
「……まぁ、働いてる場所も全然違うし、意図して近づかなきゃ会うことも稀だろうけど」
 裏を返せば「もう近づくな」ということだ。友人とその夫、そして兄との関係に愕然としたクリスには、気遣いさえ含んだ言葉に反発する意志などあるはずもない。安易な自分を呪い、後悔をかみしめながら頷けば、アントニーはあからさまに安堵の表情を見せた。彼は彼なりに、知人と幼なじみの間に立って、もどかしい思いをしていたに違いない。
 暗くなってきた空を見上げ、彼は腰に手を当てた。
「まったく、お前の処に寄ると、なんだかいつも帰るのが遅くなっちまう」
「それは、俺のせいだとでも?」
「半分は、な」
 以前は寄れば話が絶えなかった、と言いたいのだろう。だが取り巻く状況と共に、過ぎる時間の中身は異なってしまった。それを自覚しつつ、アントニーは以前のように面白おかしく語り合いたいのだ。以前と同じところを無理矢理探そうとしているようにも見える。
 そうと悟りつつ、クリスは静かに目を伏せた。
「サイラスやダスティも、また飲みに行こうぜって言ってたから、調子の良いときにでも連絡くれよ」
「……ああ」
 知らぬ名に続ける話も思いつかず、クリスは曖昧に頷いた。確約など、できるはずもない。
 そんな彼を見つめ、アントニーは呻くように声を絞り出した。
「もう、大丈夫だよな?」
「何がだ? 体調なら……」
「お前、この前おかしかったからさ。……いや、この間からおかしいから。さっきも」
 語尾を無理矢理堪えた声が、クリスの心臓を穿つ。そうしてクリスは血の気が引いていくのを感じた。
(――気付いて)
 力の入らない手足を自覚するにつれ、それも当然かと苦笑いが胸中に響く。別人が体を乗っ取っているのだ、様子も態度もおかしいことを気付かれないはずはない。真実にたどり着くとは思えないが、アントニーがそれを口に出して指摘してきたと言うことは、やはり相当にこれまでとは違った行動を取っているということだろう。
 癖や仕草、言動を真似てはいても、そのままの他人になどなれるわけがない。
 自嘲するクリスをどう見たか、アントニーは低い声で呟くように問いかけた。
「俺に隠してること、ないか?」
「……」
「言いたくない? 言えない? せめてどっちかでも教えてくれよ」
「……言えない」
「……そうか」
 アントニーの顔に蔭が落ちる。クリスは口を引き結び、強く眉根を寄せた。胸に、刺すような痛みが走る。
 彼には似合わないこんな表情を、――させたかったわけではないのに。
 言う言葉も見つからず、俯いたまま汗の滲んだ掌を握りしめる。肌寒いはずなのに、緊張に体は熱い。
 やがて、アントニーはため息を吐いたようだった。
「いつか、話してくれることを期待してるから」
 寂寥さえ感じさせる声音に、クリスははっと顔を上げる。だがその時にはもう、アントニーは背を向けて進んでいた。
 一歩、二歩、踵を打ち鳴らす音に呼び止めようと手が上がる。
(――できない)
 信じてなどもらえない。否、それ以上に罵られるのが怖い。力なく手を横に下げ、喉から漏れる音を堰き止めるために唇を強く噛む。
 いつか、話せる日が来るのだろうか。特捜隊などに抜擢されて困っていたと、それだけを笑いながら。
 去っていくアントニーの背中を見つめながら、クリスは切なげに目を細めた。胸を過ぎる寂寥感に一瞬、このまま実家へ寄ろうかと考え、しかし父の問いかけるような目を思い出し、強く頭振る。
(ああ、――そうか、そうなんだよね)
 クリスはもう一度自嘲する。
 知人の側にいる間は常に、懐かしさを感じるのと同時に緊張を強いられているのだ。だからこそ、慣れない仕事であるにも関わらず、特捜隊の面々と居ることにあまり苦痛を感じないのかも知れない。思い、クリスは後頭部をかきむしった。やるせない思いに喉の奥から呻きが漏れる。
(帰らなきゃ……)
 それでもまだ レイ兄妹に全幅の信頼を寄せていてくれるエマのもとは比較的安らげる場所だ。病み上がりの散歩に、遅くなれば余計な心配をかけるとクリスはのろのろと歩き始めた。ストーン家を避け普段使う道を行き、忙しなく通り過ぎていく人々と町並みに目を向ける。そうして、ストーン家を目に収めたときと同じ感覚に複雑な思いを抱いた。
 曇っていて良かったのだろう。
 周囲を煙らせる黄昏時の残照、それが完全に消え去る前の曖昧な闇、時を早回しするように移り変わる光景が繰り返されたなら、クリスは平静ではいられなかったに違いない。季節は巡り、街の様相にも変化は訪れている。それでも、そこに流れる雰囲気は早々に変わったりしないものだ。


[]  [目次]  [