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 再び甲高い金属音。剣の応酬を繰り返しながら、クリスはすぐに劣勢を悟った。
 剣の技量の差もあるだろう。だがそれ以上に、相手の攻撃に容赦がなかった。クリスを捕らえ、脅す、或いは追い詰めるように嬲るという気はないのだろう。見られた、では殺せばいい、そんな単純で最も危険な思考だ。
 だが、それ故に、強い。男を捕らえて吐かせる、その必要性を持つクリスには如何にも不利な状況だった。
「なかなかやるねぇ!」
 楽しげな男とは対照的に、クリスは歯を食いしばりながら猛攻を必死でさばく。無駄口を叩く余裕どころか、万が一にも勝てる気がしない。反撃の糸口が掴めないのだ。
 続く攻撃の最後、ひときわ強烈な打ち込みに、クリスはたまらず膝を突いた。
「そら」
 崩れた体勢を見逃してもらえるはずもなく、低い位置からの蹴りを転がることで何とか避ける。その際手にした小石を起き上がるタイミングで投げつければ、男はさすがに横に大きく避けたようだった。だが、それだけだ。
 転がった先、丁度真横に来た壁と壁の隙間に入り、続く剣の攻撃を阻む。そのまま向こう側に抜け、クリスは大きく荒い息を吐き出した。
 ――休んでいる暇はない。
 反射的に構えたところを暗闇の中からの強烈な一撃。かろうじて避けたクリスは、たたらを踏んで数歩後退する。そこから体勢を立て直すまでの数秒、それは本来ならば致命的なものだっただろう。
 だが、第二撃は大きくクリスから逸れたところで空を切った。
「チッ」
 ザリ、と靴が砂利を擦る音と同時に、舌打ちが耳を掠める。濡れた地面に足を取られたのだ。
 そうしてその僅かな時間が奇跡的に形勢を逆転させた。全ての実力を越えたところにある天上からの決定、つまりはそれが運というものなのだろう。
 それでも素早く体を戻した男が、剣を構えたクリスに再び襲いかかる。
(遅い!)
 閑静なはずの倉庫街に、鋭く短い音が響く。冷静になるだけの隙を得ていたクリスが、正面からそれを食い止めたのだ。
 男にしては、おそらくは若干無理な位置からの攻めだったのだろう。力押しに負けた彼の体がわずかに後方へずれる。クリスはそれを見逃さず更に腕へと力を込めた。
 たまらずに、のけぞる男。
 追い打ちを掛けるべく力の重心をずらしたクリスの頭に、

 ――こう、打ち合った後に右からきた短剣の一撃が予想外だったな。

 短い警告が掠めたのは、何の偶然か。
「!」
 咄嗟にクリスは、後方へと大きくステップを踏んだ。無理矢理剣を流した為か、手首に痛みが走る。だが、それを意識する間はなかった。一瞬、空白になったクリスの思考回路を、反射という名の無意識が支配する。
 彼の目が、短剣を突き出した姿勢のまま前のめりになっている男を捉えた。よもや、避けられるとは思ってもいなかったのだろう。隙という文字が具現化するなら、まさに今の男の姿がそうだった。
 躊躇わず、体に任せるままにクリスは低い姿勢から男の足を蹴りつける。僅差でそれを躱した男は、しかしそこでまたしても足を滑らせたようだった。おそらくは、履いている靴に問題があるのだろう。むろん、そこに躊躇いを覚えるような妙な精神は持ち合わせていない。
 反転させた体を、クリスは男の上に勢いのままに落とした。今度こそ避ける暇もあらば、硬い音を立てて男は完全に地に伏せる。その上に改めて乗り上げ、クリスは観念を促すように男に剣を突きつけた。
「言え。何者だ」
 問いに、首をねじ曲げたまま男は低く嗤う。およそ平凡な造形のはずだが、その表情のためか、いやに狡猾に見える。
 怪訝に眉根を寄せたクリスは、次の瞬間、男の背から飛び退いた。何かが右のふくらはぎを掠め、ちり、とした痛みが走る。
「……残念」
 同じく、跳ねるように汚れた体を起こした男は、クリスから充分な距離を取ってから目を細めたようだった。そうして靴の踵を数回、濡れた地面に打ち付ける。
「反応はいいけどねぇ。まだまだ甘いね。捕らえたらすぐ武装解除と行動の自由を完全に奪う、これ、鉄則だぜ?」
「暗器か。……その腹に仕込んだものも」
「そうそう。他にもあるよ。逃げて良かったね。これはたーっぷり、毒の仕込んだ刃だからねぇ。滑るのが難点だけど」
 でもそれで捕まったんだから、一長一短だねぇ、と男は密やかに嗤う。他にどのような武器を仕込んでいるのか知れたものではない。おそらくは、いや、十中八九、この場でもう一度この男を捕らえることは不可能だろう。
(いや、向こうがまだ剣を向けるなら別だけど)
 距離を取った男からは、不思議なほどに殺伐とした雰囲気が消え失せている。
 おそらく、今この場所で、彼が戦いを仕掛けてくることはないだろう。そう判断し、クリスはだらりと両腕を下げた。
「いい見極めだねぇ。それに免じて、この場はここで消えてやるよ」
 クリスは、奥歯をかみしめた。悔しい、だがまともに戦って勝てる相手でないことはあまりにも明白だった。先ほどのような軌跡は二度と起きないだろう。
 男に見逃してもらえることを喜んで享受するより他は、ない。
「……ふぅん、何故ここで殺さないのか、聞かないんだ」
「顔を覚えたんだろう?」
 灯りのほとんど無い場所で、しかしクリスは男の顔をはっきりと把握した。つまりは逆も然り、ということだ。思わぬ反撃に免じて、実力差のある相手を一度は捕らえたことを賞賛して、などという酔狂からくる撤退ではない。いつでも殺せる、そう男は判断したのだ。
 クリスの即答に、男は楽し気な笑声を上げた。
「いい度胸してるねぇ。うん、気に入った。それにそろそそ時間切れみたいだし、ちゃんと見逃してやらぁ」
「……」
「でも」
 男は、不敵に嗤った。
「今度遭ったら、殺すから」
 それは、本気なのだろう。
 得物をしまい、悠然と歩き去る。為す術もなくその背を見送りながら、クリスは汗に滑る剣の柄を壊さんばかりに握りしめた。
(……くそっ)
 助かった、とは思う。だがその後ろでこの結果に納得していない自分がいる。不甲斐ない。ふた月近く経つ今でさえ、クリスティンの技能はクリストファーの体にある身体能力を使いこなせていないと実感したのだ。けして、兄に対する過大評価ではない。それを証拠に、どっと襲い来る疲労感は精神的なものに過ぎず、肉体はまだ余力を残している。
(兄様なら――)
 思い、そこでクリスは強く頭振った。今は、悔やんでいる場合ではない。
 襲われていた者は、と思い出し、移動していた道を引き返す。押されに押されてそれなりの距離を動いていたようだが、幸い、発見した場所が判らなくなるほどではなかった。
 だが。


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