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(――ああ)
 駆け寄ったクリスが見つけたのは、体を丸めて震える痩せた人物の姿だった。細く浅い息の脇から、吐物と血液の混じった泡が口角を伝い流れ落ちる。
 周囲に目を凝らせば、崩れかけの干し煉瓦の倉庫に散乱した食料の残骸。
(ここに逃げ込んでいたというわけか)
 十中八九、この老人は件の行方不明となっていた労働者だろう。そして今はまさに襤褸を纏った年老いた浮浪者、クリスが捜していた人物だ。
「……聞こえるか?」
 呟き、目を眇める。むろん、返事はない。致命傷が与えられたと言うよりも、衰弱した体が襲撃者の暴力に耐えきれなかったというべきだろう。素人目にももう助からないことは明白だった。垢の浮いた手は冷たく、雨ではないものによってしっとりと濡れている。
「もう少し、がんばれるか? あなたを待ってる人たちが居るんだ」
 明確な返答など期待してはいない。だが他に為す術もなく、クリスは頬骨の浮いた顔を覗き込み、小さく問いかけた。
 老人の目が一瞬、瞬いてクリスの方を見る。光はない、焦点も合わない、ただ億劫そうに眼球が動き、――そうして、そこで唐突に瞼は閉ざされた。
「っ、お、おい!」
 クリスははっと息を呑む。
「ちょっと、……嘘でしょ?」
 死ぬ、と予想はしていても、その瞬間に立ち会うことへの覚悟はできていなかったのだろう。クリスは老人の肩に手を掛け、足下の砂を鳴らした。
 戦場に出たことのあるクリストファーとは異なり、クリスティン自身が人の死にまともに立ち会ったのは、母親の時を含めて二回目に過ぎない。否、母親のそれが幼少時であったことを思えば、初めてと言った方が正しいだろう。
 故に、次にすべきことを頭に描くことも出来ず、まっ白な状態でただ動揺のままに老人の肩を揺する。
「おい、――、本当に……」
 死んだのか、とそう問うこと自体が現実逃避に近いものだったのだろう。むろん、呼吸音すら聞こえない沈黙が、答えとなってクリスを叩く。
 抜け出る魂は見えない。導き人も見えない。だがこれは死だ。そう認識したクリスの鼓動が、内側から激しく胸を叩く。
 目の前に、死が。そう思った瞬間。

 ――許さない!

「!」
 脳裏に響く絶叫と激しい頭痛。殴られたような衝撃に、クリスは咄嗟に両手で頭を抱えた。
 奥に何かが見える。何かを感じる。時系列は今ではない。許さないと、痛烈なほどに訴える想いは今この場にはない。
「なっ……」
 強烈な目眩、何かに対する渇望、襲い来る怒りの感情、目の前に、事切れた老人ではない姿、顔も判らないシルエットが浮かび上がる。

 ――許さない!

 再び、脳裏に声。だが、これはクリスティンのものではない。もっと低い、絶望を伴った――……。
 新たな記憶に、クリスは必死で手を伸ばした。何かが掴めそうな気がする。
 あと少し。だが、その時。
 突然、強烈な光が、老人の体を包み込んだ。咄嗟に目を庇い、半ば倒れるように後方に逃れ、身構える。
(まさか、導き人が迎えに? ……いや、あの時とは、)
「あああああああああっ!」
「!!?」
 闇を裂くかのような絶叫に、クリスは腕を解いて目を見開いた。頭痛や強い目眩は無かったかのように消失し、クリアになった意識に現実が怒濤となって押し寄せる。
 光の消えた後に残ったのは老人の体。だが直前までと異なるのは、死んだはずの彼が再び、悶えるように四肢を動かしていることだった。
「が、ああ、あああっ!」
「な、――、おい!?」
 肩を揺するクリスに抵抗する様子はない。ただ、下手な繰り師に操られたように無軌道に動き続ける。
 予想外の事態にクリスが呆然と見遣ること数秒。その間に唐突に動きを止めた老人は、不意に焦点の合わない目を彼に向けた。
「……居た」
「え!?」
 嗄れた声が、意味のある言葉を紡ぐ。その事実に目を丸くして、クリスは老人の顔を凝視した。
「砂煙、人が集まっている。それを見ている、男だ、軍服のようなものを着ている、だが、合ってない、――40か50くらいの、着替えた、黒い服、下はそのままで」
 死んだ、と思った男が、喋っている。カッと目を見開き、宙の何かを読むように探るように、小刻みに震えながら切れ切れの言葉を吐き出している。
 息を呑み、クリスは呆然と男を見下ろした。
「不自然に突き出た腹、おかしい。時々、見る。もう一度、見た、夜、男たち、ふたり、見張り、死」
「……それは」
「聞こえる、『余計な真似』、逃げる、ひとり。家の中、細身の影、あれは……、ひとり、倒れて、……死、恐怖」
 言い切り、男は苦しげに顔を歪めた。
「怖い、怖い、怖い、怖い、怖い!」
「おい!」
「嫌だ、苦しい、怖い、苦しい、怖い!」
「落ち着け、おい!」
 もはや、恐慌状態だ。わけもわからず意味のない声を掛けるクリス。
 そしてひときわ強い痙攣。
「っ!」
「――ゲッシュ!」
 同時に発生した強い光に目を焼かれ、クリスは眩しさに仰け反った。視界が白く、次いで黒く、急激な変化に硬く目を瞑る。
(何だ、これは、いや、今誰かがゲッシュって……!)
 そして数秒、――十数秒。
「しっかりしろ、ゲッシュ!」
 焦った声に、クリスは思わず目を見開いた。だが、一度強烈な光を受けた目は何も映さない。
「お前、なんでこんな――」
「……いいんだよ」
 弱々しい声に、クリスははっと息を呑む。
「ごめん、クリスティン、ごめん……」
「ゲッシュ!」


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