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 目を細め目を凝らし、次第に慣れてきた時点で、闇に透けぼんやりと光るふたりの人物に気付く。
 ひとりはゲッシュだ。そうしてももうひとり、こちらは初めて見る導き人だ。――否、彼から感じる雰囲気をクリスは知っている。
「お前は、さっきの」
 早鐘を打つ心臓を押さえつつ、クリスは荒い息を吐いた。ぽつりぽつりと頼りなく落ちる雨が、汗と混じって頬を伝う。 
「どういう、ことなんだ?」
 襲撃者が言っていたことが正しいのであれば、浮浪者こと老人のもとへ光となって誘導したのはこの導き人に他ならない。しかし、そうしてクリスを謀っておいて、何故今ゲッシュと共にこの場にいるのだろうか。
 答えない導き人達を前に、クリスの目は脇へと落とされた。ふたりからの僅かな光を受け、今は完全に力を失った老人の姿が浮かび上がる。クリスは震える指を男の頸に伸ばした。だがそこに脈打つものはなく、半開きの口から漏れるものもない。全身で苦悶を表し、そうして老人はそのまま死んでいた。
 これが正しい姿だ。死者が突然息を吹き返し、明瞭とは言えぬまでのはっきりとした言葉を吐いて再び事切れる。どこからどうみてもまともではなかった。
(さっきいきなり喋りだしたのは、まさか、)
 あの導き人が何かしたのだろうかと考え、しかしそこでクリスは唐突に膝を突いた。
(……なんだ?)
 妙に体が怠い。力が入らない。風邪がぶり返したかと思えば、右足に鈍い痛みが走る。震える手でズボンの裾を捲れば、暗闇にもそれと判るほど腫れたふくらはぎが目に入った。
 毒だ。むろん、どの程度のものかなど判るわけもない。だが、暗殺を生業にしていそうな男が仕込んでいたものだと考えれば背筋に冷たいものが滑り落ちる。
(まずい)
 今起こったことを考えている場合ではない。人通りの多い方へ行かなければ、と全身の力を振り絞り、一歩二歩と足を引きずるように進む。だが、古い倉庫の建ち並ぶ入り組んだ道はどこまでも冷たく、人の気配に薄い。逃げ込む場所にと選ばれただけのことはある、といったところだろう。
 ほどなくしてクリスはその場に崩れ落ちるように座り込んだ。壁に背を預け浅い息を繰り返せば、ぼやける視界に星が映る。
 雲の切れ間に瞬くそれを見ようと顎を上げ、しかし緩やかに襲い来る目眩に耐えきれずに、クリスは何度も喉を鳴らした。
 ――と。
「その状態でも、まだ生に執着するか」
 冷えた声が耳朶を打つ。
「やはり人間は愚かな生き物だ」
「……な、に?」
「他人の体を奪ってまで生にしがみつく。あれこれと言い訳をつけて生き存える。他の者の命を踏み台にして、そうまでして生きたいか」
 蔑む声音に、クリスは殆ど伏せていた目を上に向けた。
 宙に浮き、ぼんやりと光る存在。ゲッシュを肩に担いでいるのは、およそ30台前半の痩せた男だった。
「導き人……。どういうことなんだ? それに、ゲッシュは」
「こいつは、眠っている。お前のせいでな」
 与えられた情報の欠片に、クリスは強く眉根を寄せた。
「な、に?」
「お前の手助けをして、ダメージを負った」
 その言葉に、クリスは沈みかけていた意識を急速に浮上させた。驚愕と動揺が、一時的に怠さを隅に押しのける。
 ようやくのように視線を合わせてきたクリスを見て、導き人は低く嗤ったようだった。
「あの老人が死ねばお前は手詰まりになる。だから肉体に残る記憶を探ったんだろう」
「じゃあ、あれは……」
「お前が間に合っていれば、聞けたかも知れない情報の一部、だろうな」
「そんなことが……」
 死んだ者の記憶を探る。そんな非常識なことができるのかと問いかけ、こみ上げる吐き気にクリスは喉を詰まらせた。
 確かに生者には干渉していない。ゲッシュが何かしたであろうその時より先に、老人は死んでいたのだから。だがその行為は、死んだ者の体を乗っ取る行為と同じなのではないか。
(だったら、導き人は)
「本来、やっていいことではない。だからゲッシュはこうして動けなくなっている」
「お前が!」
 平坦な声にさっと血の気が引いていくのを感じながら、クリスは引き攣る喉で怒鳴る。
「もとはといえば、お前が、あの襲撃者を誘導したからこうなったんだろうが!」
「あの男は老人を追い、情報を得て既に近くまで来ていた。本来なら、お前の方が全く間に合わない状況だったんだ」
「……!」
「機会も、与えてやったはずだがな」
 クリスは唇を戦慄かせた。
 つまり、この導き人は賭けたということか。襲撃者と遭遇しクリスが凶刃に倒れるか、遭遇する前に老人を助け出すか、手を出さなければ起こるはずだった未来に準ずるかと。クリスが老人の行方すら追うことも出来なければ、確実に事態は停滞する。それは彼にとっても導き人にとっても望ましからぬ状態だ。
 だからこそ導き人はクリスに機会と落とし穴を同時に授け、まずい方向へと転がる現状を打破しようとしたのだろう。クリストファーの肉体が死ねばそれで良し、老人から無事に情報を得ても良し、――だが現実は、思わぬ方向へと転がってしまった。
「お前がゲッシュと名付けたこいつがいやにお前に入れ込んでいるものだから、心配していた。……やはり、様子など見るべきではなかったんだ」
「だったら、……遠回りなことをせずに、面倒でも、今からでも私の魂を消せばいい。……多少手間が掛かっても、回りくどい方法など、採らずとも」
「お前が消滅すれば済む、か」
 導き人は、ゲッシュに目を向けて皮肉っぽく嗤った。
「そうだな。俺はそうしたい。こいつだって、本当はそう思っているはずだ」
「では、何故、そうしない?」
「俺たちは基本的に生者に手出しは出来ない。それだけ生きているということは、体と魂の結びつきというものは強いんだ。だから殺すのが最善だと思っていても、それをそのまま実行することなどできはしない。例外があるとすれば、その者が死にたいと強く思い、心の底から生きることを拒否し、干渉を許可したときだけだ」
「だけど、……私は違うと。半分、死んでいると」
「本来は、な」
 クリスは、汗の流れる眉間に強く皺を寄せた。
「お前が自分を死者だと自覚し、昇天することを望み、クリストファーに寄生しているだけならお前だけを消滅させることができた。死ぬということに積極的になっている状態だったから」
「……」


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