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「だが今のお前の魂そのものに干渉することが出来なくなっている。つまりそれは、お前が生きることに執着しているという証拠だ。肉体を持ち、強い意志を持っている生者に、俺たちは直接干渉できない」
 クリスは、ようやく言わんとしていることを理解した。
 導き人は生物を含む物質に触れることが出来ない。魂と呼ぶものへの干渉しか出来ないのだ。
 本来、エネルギーを失った魂だけのクリスティンには干渉できるはずだった。事実、今の言葉をそのまま受け入れるとすれば、クリストファーの体を乗っ取った直後は可能だったのだろう。だが兄の振りをして生きる内に、クリスティンの中に生きて何かをすることへの執着が生まれてしまったのだ。
 結果、クリスティンの魂とクリストファーの肉体及びエネルギーへの結びつきは強くなり、導き人の干渉をはね除けるほどになってしまった。
 そう理解するほどに、クリスの喉は干上がっていく。
「わ、たしは」
「口では何とでも言える」
「私は!」
 硬く目を瞑り、全身の力を使ってクリスは声を絞り出す。
「思い出すべき事を思い出してないんだ。私がかつて執着してたことが、今こうなってる原因じゃない。だから、この事件が解決すれば」
「事件が終わったら? 今度はクリストファーの妻の出産を見届けたら? その次は父親の跡継ぎが決まったら?」
「!」
「欲は、次々と出てくる。それがけして悪いものじゃなくても。生きている限り、次を思う。お前にはそれが切れるのか?」
 クリスは奥歯をかみしめた。切れる、と叫びたい。だが、脳裏に浮かぶ人々はそれを許してくれそうになかった。
 反論が出来ない。霞の掛かった思考の中で、掌の冷たさがいやに強く感じられる。
「俺はもう気の遠くなるほどこうして人間を見ている。だが一度完全に相手の体を乗っ取った状態から改心した奴は――いない」
「……」
「なんだかんだと理由を付けているが、人間は、」
「頼む」
「何?」
「約束する、……だから、いつか私は消えると約束する」
 いよいよ毒が回ってきたのか、段々と声が遠くなっている。気がつけば口を開くのも億劫になっていた。
「だから、兄様を殺すのは、待って、ほしい」
「待つ、ね」
 言葉の端々に嘲笑が聞こえる。
「待ったが効くものか。そうこうしているうちに、本当の犠牲者となる前に、いっそ死んでしまった方がましな状態になる」
「本当の……?」
「今はまだ間に合う。お前の兄とやらは、まだ肉体の中で生きているからな」
 クリスティンがエネルギー源としているからだ。だが、間に合うとはどういうことか。
「お前は……、何を、知って」
「俺の名前は、トロイ」
「名前? ……でも、ゲッシュは、ないと……」
「ある。ゲッシュは未だ思い出せないだけだ。肉体があった頃のことをな」
 クリスは、怠さに落ちる瞼を必死に持ち上げた。どうにか開いた細い視界の向こうで、ぼんやりと光る男が嗤っている。

「俺たちも、もとは同じ人間だ」

 ”本来、他人の体に他人の魂が入り込んで、――悪い言い方をすれば意図して乗っ取る、ということは基本的に不可能なんだ。生物の肉体と魂の持つエネルギーの結びつきは強い。だから、世を儚んで死ぬことしか考えてないってくらいに精神的に弱った状態でない限り、その魂を追い出して肉体を乗っ取るなんて真似出来ないんだ”
 かつてのゲッシュの言葉だ。それは、逆に言えば――
(弱っていたら、追い出せる)
 だが、追い出された魂は。
「自分の肉体から追い出された魂は記憶をなくす。肉体が生きている為自我は無くなさいが、同時に転生もできない。自分が何者か、何故意味もなく世界を彷徨っているのか判らないまま年月は過ぎ、そうして肉体が死んだ瞬間にようやく全てを思い出す」
 どこか悲痛な声に、クリスは薄れていく意識の中で小さく顎を引いた。
「だがもう、その時には魂は変質してしまっているんだ。転生もできない。源にも還れない。そうして俺たちは少しでも俺たちのような存在を作らないように導き人となり、残るエネルギーが無くなった後」
 一度言い淀み、
「消滅し、漂う存在となる」
(――ああ)
 トロイという男は今、自分たちの境遇を悲嘆から語っているのではない。彼は教えているのだ。このままクリスティンが兄の体を乗っ取り続けることにより起こりうることを。いずれクリストファーのエネルギーを完全に奪い取る事態が訪れたとき、彼に何が起こるのかを。
「お前は大切だと言った兄を、そういう存在にしたいのか?」
 膜を一枚隔てたようにどこか遠くで聞こえる。
 そんな問いかけにクリスは残った力で、ただ唇を震わせた。

 *

 カタカタと窓が鳴った。彷徨う風が僅かな隙間から入り込み、控えめに灯された炎を揺らす。
 机の上に書類の束を投げ出したルークは、冷えた体を椅子に預けてため息を吐いた。
 周辺諸国からの外交官の派遣。
 その日の昼に挙がった議題を思いだし、眉間に強く皺を寄せる。事件の発端よりひと月を過ぎ、諸外国が揺さぶりをかけてきたのだ。イエーツ国は貿易上有利な土地にあるために、どの国も虎視眈々と狙っている。
(ハウエル様が復帰してくだされば……)
 ルーク自身、手持ちの駒を使いあれこれと探りを入れてはいるが、セス・ハウエル法務長官の状況については驚くほどに上手く隠匿されている。一時期は既に亡くなっているのを伏せている、といった噂まで飛び交っていたが、直筆の文が法務省へ届けられて以降は快復と復帰を願う声が強くなった。
(侍医の説明では、一進一退ということだが……)
 老いて尚底の見えない人物だ。実のところとうに快復し、裏で動いているのではないかとも疑っている。むろんそれは横の繋がりを無視した行為であり、ルークや立場を同じくする軍務長官にしてみれば腹立たしくも哀しい事態であるわけだが、それ以上に希望となることも確かだった。


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