[]  [目次]  [



12.


 軍部から財務省を抜けて向かう法務省は、思いの外遠い。徒歩にして約二十分、薄曇りだと思っていた空が単に夜明け直後だったと気づき、靄が晴れていくのを体感するには充分な時間だ。
 そうしてようやくたどり着いた一室で、磨かれた卓の上に置かれた香茶の湯気を目で追いながら、クリスは深々と息を吐き出した。不機嫌というよりは、勘弁して欲しいといった表情である。
「容疑者に茶を出すとは、法務省も変わったところだ」
「おや、要りませんか?」
「飲む」
 特に喉が渇いているというわけではないが、油断ならない相手を前に何の小道具もなく向き合っていられるほど図太くはない。ましてや殺人容疑で連行された先である。某か返答に詰まる事を聞かれた場合の時間稼ぎくらいには利用できるだろう。
 彼とは異なり、余裕綽々といった表情で席に着いたヨーク・ハウエルを見つめながら、タイミングを見計らってクリスは口を開いた。
「それで、どんな尋問をするつもりだ?」
「『俺は無実だ』とかは言って貰えないんですね」
「無実も何も、拘束される理由がわからん。――第一」
 区切り、クリスは自分の脇にあるものへと一瞥を走らせる。
「武器を取り上げもしないとは、某かの容疑者に対してどうかと思うが?」
「あなたへの最大限の厚意ですよ」
「莫迦言え」
 吐き捨てるように言い切り、クリスはヨークを睨む。むろん、そのような顔に脅されるような男ではない。
 ひとくち香茶をすすり、ヨークはカップをソーサに戻してから口元に笑みを浮かべた。
「では、この状況をあなたはどう考えていますか?」
 きた、とクリスは身構えた。この手の誘導は、自分の流れに乗せるための常套手段である。答える側が質問者の意図を読み取ろうとするのを逆手に取る方法だが、情報量の違いが明らかな場合には非常に仕掛けやすく為しやすい。
 対抗手段はといえば、これも単純な話、要ははっきりしている事実だけを述べる、これに尽きる。故にクリスは、ヨークに対して首を横に振ることで対応した。
「知らん」
「……では、単刀直入に聞きましょう。あなたは昨晩、あそこで何をしていたのですか?」
「あそこ、とは?」
 白を切るつもりか、とヨークの目が批難を湛える。だがそれには乗らず、クリスは乾いた唇を舌で湿らせた。
 ヨークは聞き出したい情報が偏らないように、その前後を合わせての情報を欲しがっている。敢えて詳細を言ってこないのはその為だ。故にクリスの口からあれこれと勝手に語ってくれるのを待っているわけだが、それに乗ってやるほどクリスもお人好しではない。
「何を疑っているのか、俺には判らん」
 余計なことを喋るわけにはいかないのは、クリスの方も同じだ。否、説明できないのではなく、説明に「困る」行動を取っているぶん、クリスの方が不利と言える。
 平坦な声になるようにとひとつ息を吐き、彼は改めてヨークを真正面から見据えた。
「昨日俺は、夕方に散歩に出た。そのあたりはアントニー・コリンズに確認を取ってくれ」
「散歩の理由は?」
「ここ数日寝込んでいた。そこにアントニーが来た。それで外の空気を吸いたくなっただけだ。深い意味はない。それとも、全ての行動に某か明確な理由が必要だとでも?」
「いえ。続けてください」
「アントニーと別れた後、帰り道となる路地裏で外国人労働者に呼び止められた。はじめは単にケチをつけるような感じだったが、俺が軍人だと判ると別の話を振ってきた。どうも、彼らの仲間である老人が、爆破事件のあらましを聞いた後に行方不明になったらしい」
 一瞬チリ、と空気が鋭さを増す。
「報告が上がっていると思うが、爆破事件の前に他の者が聞いた不穏な会話、その中にその老人のことをにおわせる内容があったはずだ」
「飛躍のしすぎでは?」
「そうでもない。話を聞けば丁度長官ふたりが襲撃にあった頃にも、老人は少し行動のおかしなことがあったそうだ。このあたりは俺が遭った事故の周辺に居る労働者と話をつけてくれ」
「ではあなたはそれで、その行方不明の老人が一連の事件に関わりがあるとして探した、と? ――それで、何故あの場所に?」
「見たことがあるかも知れない、と思ったんだ」
 クリスにとっては、ここが嘘の要である。
「俺は時々夜に軍の訓練場へ行くことがある。昼は普通に兵の訓練に使われているからな。前にそうして訓練に行ったときに、あきらかに挙動不審の浮浪者然とした者を見たことがある。その者がそうとは限らないし、違う可能性の方が高いだろう。だがなんとなくそれを思い出して、足を伸ばそうかと思って向かったんだ」
「つまり、何か目的があって向かったのではないと?」
「今言ったことが目的にならないと言われたらそうだろうな。行って戻って二時間もかからない。寝るのに飽きて動きたかったのもあるだろう。それで俺は軍の訓練施設の方へ向かったが途中で思ったよりも早く暗くなってきたので、商業区の方で馬車でも拾おうと思って行き先を変えた。その途中で悲鳴を聞いた。そしたら倒れている誰かが居た。よく確かめる間もなく突然誰かに襲われて足を刺された。後は毒が回って倒れて、目が覚めたらさっきの場所だった、ということだ」
「それはいつ頃の話です?」
「雨が降って、完全に暗くなって、それから気を失うまで一時間とない程度だ。ただ、周辺には誰もいなかった。目撃者などと言われても困る」
「……」
 クリストファーの家のあるあたりからまっすぐ西へ行けば丁度例の倉庫のあたりへ出る。軍の訓練所はそこから北へ進めばたどり着くが、それよりも南へ行き商業区へ入る方がいくらか近い。夜になれば閑散とする軍部方面に比べれば歓楽街に近い商業区の方が人も多く、乗合馬車を探すならそちらへ、と考えるのは少しもおかしな方ではないのだ。
 むろんそれは一応辻褄は合うという程度で、考え込むように目を伏せたヨークからは、あからさまに不審の空気が流れている。
 クリスが労働者に出会ったのは偶然、以前に訓練所の近くで該当者を見たというのも偶然、向かった先で事件にあったのも偶然、ここまでたまたま、という状況が重なれば誰しも疑いたくなるというものだ。
(導き人の存在を抜くだけで、ここまで嘘っぽくなるんだからな……)
 点在する事件を結ぶ存在の重要性を再認識しながら、表面上は無感動に、黙ったままのヨークの次の出方を待つ。
 だがしばし後、ようやくのように顔を上げたヨークの開口一番の言葉は、クリスにはあまりにも予想外だった。
「ではあなたは、マイラ・シェリーには関わっていないと?」
「……は?」


[]  [目次]  [