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 名乗り、適当な理由を告げて取り次ぎを頼み、ふ、と息を吐く。思考の隙間にはまだ怠さが残っているようだ。大きく切り取られた窓から差し込む緩い陽を浴びてクリスは大きく背を反らせた。
(レスターの家か……。あんまり来るなってダグラスが言われてたけど、用事があるんだしいいよね)
 仕事中ということも考えたが、レスターが中隊長格であることを思えば、まだ陽が昇って間もない時間に来ている可能性の方が低いだろう。時間に不規則な巡回業務や待機は主に小隊単位で行われ、中隊長格ともなれば日中の合同訓練の監視や指導、事務的な会議への参加の方が増えるからだ。
(まぁ、すれ違う可能性もあるけど、どうせ私も家に帰らなきゃエミーが心配してるだろうし)
「あの……?」
「あ、失礼」
 考えに没頭している間に窓口の事務は仕事を済ませていたようだ。結果はといえば、若干申し訳なさそうな顔を見れば知れるものだったが。
「キーツは只今財務省の方へ出ているようです。戻る時間は判りません」
「そうですか。結構です。ありがとう」
 自分のせいかなと思いつつ、クリスは事務の女性に礼を述べ出入り口へと向かった。辺りを歩き回る者の大半は法務省の制服を着ているが、正門が開放されたのか、ちらほらと私服姿の町人の姿もある。泥まみれという点では異様だが、クリスの今の格好は彼らと同じだ。財務省の奥にそのまま単独で向かえる服装ではなく、そういった意味でも一度家に帰る必要があるだろう。
 そうして法務省の門をくぐり、クリスは足早に町へと向かった。


 ――その頃、

「なんかちょっとテンション高かったよな……」

「ちょっと雰囲気違いましたね……」

 違う場所で違う人間が同じ事を呟いていたとは、知るよしもない。

 *

 相変わらず重厚な構えの家を見上げ、クリスは躊躇いと共に足を止めた。毒の残る体に無理を強いたせいか、小走りに駆けてきた体は怠く熱い。朝の冷えた空気を深呼吸で肺に送り、彼は勢いを持ってエルウッド家の扉にあるノッカーを鳴らした。
(居るといいけど)
 内側から動かされたノブに気づき、クリスは一歩後ろへと下がる。扉が外開きということもあるが、予定外の訪問者としては警戒心を与えたくないというのが理由だ。
 カチリ、と小さな音がして滑らかに開かれた扉から現れたのは、如何にも厳格そうな夫人だった。飾り気もなくひっつめた髪や服装からして、ハウスメイドといったところだろう。レイ家の使用人カミラにはない貫禄があり、親しみやすさが全くない。
「……どちら様で」
 相手を萎縮させるために出しているのかと思うほど、低い声には愛想が欠けている。あからさまに不審人物と決めつけているような態度だ。家主にそこまでの地位がないことを思えば、明らかに過ぎた対応だろう。
 のど元までせり上がる皮肉を無理矢理飲み下し、クリスは平静を装って軽く頭を下げた。
「突然の訪問、失礼する。クリストファー・レイと言う。軍部でレスターの世話になっている者だ。レスターは在宅だろうか」
「旦那様は不在でございます」
「では、仕事へ?」
「お答えする義務はございません」
 鋭い目がクリスを捉えて細められる。そうして女は値踏みするように視線を上下させた。猛禽というほどの迫力はない。だがどことなく粘着質な、それでいて冷たい目つきにクリスははっきりと嫌悪感を覚えた。
 彼女の隙のない様子には、家の構えにふさわしいだけの風格はある。だが品格はない。
「他にご用がなければ……」
「カミラ!」
 突如、奥から響いた声に、クリスはぎよっとして更に一歩退いた。
「お前は何を……! 失礼しました!」
「……いや」
 カミラという人名を差すのが目の前の女だと気づき、面白くもない偶然に苦笑する。そうしてクリスは、新たに現れた男に向けて、もう一度名乗りを繰り返した。さほど丁寧とも言えない挨拶に、相手は気の毒なほどに謝罪を繰り返す。
「申し訳ありません。後で言って聞かせますので、どうかご容赦を!」
「気にしないで欲しい。こちらも突然のことだ」
「いえ、本当に、本当に……! ああ、私こそお通しもせずに失礼しました。どうぞ、中へお入りください」
「いや、レスターはいないんだろう? それなら」
「いえ、旦那様は一度お戻りになります。お時間がございましたら、何卒中でお待ちいただけませんでしょうか」
 本当のところは、接待を受けて待つほどの用ではない。ここは辞して軍部で待つほうが正しいのだろう。
 そう判断しながらも結局半白髪の老紳士の必死な様子に負け、クリスは躊躇いながら頷くこととなった。
「ありがとうございます。ではどうぞ、こちらに」
 案内を受けたのは一階にある応接室である。午前にして日当たりの良いその部屋は家の構えほどの堅苦しさもなく、人を招くという目的に過不足なく適していた。やはり親の代に設えられたのか、最近の流行を取り入れたクリスの実家とは異なり、古さとそれに支えられた落ち着きがある。
 全体的に華やかに見えるレスターの家と思えば、少々意外と言ってもよいだろう。
「どうぞ」
 老紳士がクリスの前に音もなくカップを置いた。礼を言いつつ、クリスは何度か瞬いて首を傾ける。バトラーが必要なほど大きな家ではない以上単なるオールマイティな従僕と見るべきだろうが、それにしては動きが洗練されている。
(さっきの女といい、謎だ……)
 老紳士がひたすら謝っている間に無言で消えた女を思い出し、クリスは眉根を寄せた。若い夫婦がまとめている家にしては、どうにも空気が重い。実家も、比較的よく訪れていたアントニー・コリンズの家も開放的なだけに、どうしてよいものかと考えあぐねるほどだ。
(レスターと言えば浮気男、あいつが家の空気を悪くしているのか、家の空気が悪いからあいつが忌避するのか……)
 本来突っ込むべきではない他人の事情をあれこれと考えつつ茶を口に含み、クリスは目を見開いた。
「……旨い。カレッカ地方のものか」
「その通りでございます」


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