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「街中の警備や検問などで軍全体が非常に忙しくなっている。レスターも勿論例外ではないだろう」
「それは、連日夜家を空けるほどですの?」
「一兵卒ならばともかく、中隊長補佐となれば事務的な仕事も増えるだろう。部署も違うので正確には判りかねるが、非常事態に近いことがあればそういうこともあり得るかもしれません」
「そうなのですね。主人は何も言ってくださいませんの」
「軍が忙しいとなれば不安を覚えるものだ。あなたに心配をかけることはないと思っているのだろう」
「……だといいのですけれど」
 一拍置いた科白はどこか調子が軽く、物憂げな表情との間に溝を感じる。それでいて何か訴えたそうにしているが、流し目にも似た視線からは読み取れない。先ほどの老紳士といい厄介な――腹に一物ある者ばかりかとクリスは不快にも似た感情で目を眇めた。
「レイ様も軍部の方でいらっしゃる?」
「はい、一応」
「ご実家も?」
「は? ……いや、実家は商いを」
「まぁ、でしたらご自身の道を行かれたというわけですのね。ご立派ですわ」
「私の場合はわがままを通したに過ぎない。しかし、それを言うならレスターも同じでしょう」
「そうですわね。あまりに軍人らしくて、忘れそうでしたわ。でも、同じ軍の方でも、あなたは随分お話しやすくて嬉しいわ」
 これにははっきりと、クリスは顔を顰めた。どう考えても、レスターの方が口が上手いのは明らかだ。笑顔もやる気も見せない今のクリスを前にして言う台詞ではないだろう。
 夫への不満を知人で同じ職業である者に当てこすりたいだけなのか。そう思えばどことなく辻褄は合うが、女が口に刷いている不思議な笑みが気に掛かる。
「失礼かもしれませんが、ご結婚はなさっておいでです?」
「は? それは、一応しているが」
「まぁ。奥様とはどこでお知り合いに?」
「知人の紹介ですが」
 唐突に何をと思いつつ、クリスは言葉を選んで無難に返す。
「そちらは? 何かのパーティなどが切っ掛けですか?」
「いえ、父からの勧めでしたの」
「お父上というと、マーティン・ウィスラーどの?」
「あら、ご存じでしたの? ええ。父とシリル・エルウッド様が知己で、その縁ですわ」
「シリル……というと、レスターのお父上か」
「ええ。商売上のお付き合いとか。もっともわたくしはエルウッド家の方々とは縁談の際に初めてお会いしたのですけど」
 マーティン・ウィスラーは王宮に勤める人間だ。レスターの父がやっていたという贅沢品を扱う商売と直接の接点はないが、王宮内の装飾品やそこに勤めるものの装飾品を卸していたと考えられる。
 そんな思考を隠しながら、クリスは女が好むであろう話題を続けた。
「しかし、おふたりの結婚はさぞ噂になったでしょう?」
「その当時は、そうでしたわね。でも恋愛とは言い難い始まりでしたわ」
「それは、そうでしょうが」
「ですから、……ねぇ」
 目を伏せ、ステラはふとため息を吐く。
「子供でも居れば、寂しさも紛れるのですけど。レイ様にはお子様はいらっしゃいますの?」
「いえ。来年のはじめごろに生まれる予定ですが」
「まぁ」
 驚いたように、しかしどこか空々しくステラが扇に手を当てた。
「あら、あら。ふふ……」
 微笑み、ステラは奇妙な間を空ける。
 この会話の流れでいけば、普通は社交辞令の祝辞が述べられるはずだ。だが彼女からは、そんな様子など微塵にも感じられない。であれば何故、寸前までの話を断ちきるように敢えてこの話題を持ち出したのか。
 弓なりに曲げられた目を見返し、クリスは無表情のまま内心で身構える。その反応をどう捉えたのか、ステラは不意に扇を閉じ、脇へ置いた。そうして、左手を長いすの腰掛けに付け、左肩を押し出すように状態を捻る。右手は下腹部、自然、強調されるのは豊かに盛り上がった胸部だ。
「それなら……」
 どこか蠱惑的な笑みにクリスは顎を引く。
「随分とお寂しいのではなくて?」
「……!」
 瞬間、クリスは椅子を蹴って立ち上がった。
 この女は、値踏みし、評価を下し、そうして誘っていたのだ。おそらくは他の男なら、もっと早くに気付いていたことなのだろう。
 ようやく意図を悟り、それに伴って噴出した怒りが、気付かぬうちに拳を震わせる。
 そんな彼を見て驚き、だが次の瞬間には平静に戻ったように、ステラは落胆とも侮蔑ともつかぬ表情を浮かべた。
「あら、お帰りに?」
「……失礼した」
 罵詈雑言を喉元で堰き止め、クリスはかろうじて退室の言葉を述べる。それが、今の彼に出来る最大の礼儀だった。感情のままに罵らなかった自分を褒めたいくらいである。
 怨みがましくも粘着質な視線を背中で受け止めながら、クリスは扉を乱暴に閉めた。慌てて飛んできた老紳士を手で追い返し、そのまま家を後にする。
 ――と、門を出たところで、クリスは足を止めざるを得なくなった。
「……レスター」
 上質な普段着といった簡素な出で立ちだが、それでもどこか目を引く青年に、クリスは掠れた声を出す。
 今まさに戻ってきた、というわけではないだろう。
「すまなかった」
 痛みを湛えた目と謝罪の言葉、レスターにはどこか似合わぬ態度に、クリスは奥歯を噛み締める。
「忘れてくれると助かる」
 いたのか、と言う気にはなれない。知っているのか、とは聞けなかった。確かめるまでもない、とも言う。皮肉に恥を塗したようなレスターの顔を見れば、それは判りすぎるほどに明らかだった。彼の妻が男を誘うのは、彼の中で諦めの領域に属するのだろう。
 ため息を吐き、クリスはレスターの胸を手の甲で叩いた。
「……来るな、と言われたのに無視したのは俺だ。お前が謝ることはない」
「助かる」
「だが、たまには家に帰れ」
「私は、女を悲しませるのも怒らせるのも好きじゃない」
 遠回しの拒絶、否、それ以上のものが含まれた声に、クリスは眉根を寄せた。しばし目線だけで問答を交わし、やがて彼は緩く頭振る。
(彼女の悪い癖は、レスターのせいじゃないってことか)
 どちらが先に不貞を働いたかなど、突っ込んで聞く気にはなれない。レスターも、これ以上話す気はないだろう。だが既に隠されたものではない醜聞であれ、常に自分と結びつけられるのは苦痛というものだ。


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