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 ひとつ息を吐き、クリスは後頭部を掻きながら同僚を見遣る。妻と若い男がふたりきりになればどうなるかを知っていて敢えて部屋に踏み込んでこなかったのは、それだけ信用してもらっていると自惚れてもいいのだろう。興味と信頼を天秤にかけるなら、傾きの答えは決まっている。
「まぁ、ひとつ貸しにしておいてやる」
 むろん、口止め料、などと本気で言っているわけではない。これでこの話は終わりという、単なる区切りのための捨て台詞だ。それにレスターが気付かぬわけもなく、彼は目を細めて小さく頷いた。
「ところで、私に用があったのではないのか?」
「あ、ああ。そうだった」
 短い間に衝撃的な体験が続き、危うく忘れてしまいかけた用件を頭の奥から引きずり出す。
「マイラ・シェリーについて聞きたいことがあったんだ」
「……それはまた、唐突だな。彼女がどうかしたのか?」
 瞬き、不思議を前面に出した驚きの様子には、不自然なところはない。動揺ではなく面食らった、そんな表情にクリスは心中のどこかで安堵を覚えた。
「昨日から行方不明らしい。お前は前にその女性と会っていただろう?」
「何らか深い付き合いか、はたまた行方不明とやらに関与しているのか、どちらかがあると思ったのか?」
「あっさりとまとめられると複雑な気分だが、その通りだ」
「あっさりと認められると、私の方も勘ぐるななどと突き放せなくなる」
 苦笑し、レスターは指で顎を掻いた。
「しかし、そろそろ軍部に向かう時間だ。今日、昼は空いているか?」
 基本的にいつでも暇だという自嘲を飲み込み、クリスは頷いて空を見遣る。レスターの言う昼とは、彼の昼休憩の時間のことだ。今から家に戻りエマに詫び、朝食を摂って湯を浴びて着替えて出れば、丁度いい頃合いとなるだろう。
「問題ない。場所は?」
「午前は模擬戦だからな……、第二訓練施設の談話室で待っていてくれ」
「判った」
 遂に同業者の多い場所に行く。瞬間的な緊張に鼓動を速めながら、クリスは神妙に頷いた。

 *

 軍の訓練施設は外部から直接入ることのできる扉と、もうひとつ、裏庭と更衣室に繋がるものがある。クリスが時々筋力トレーニングに利用するときはむろん、前者の利用だ。
 午前の鍛錬を終えた者達は主に喉を潤すため裏庭へ向かい、ついでに体を拭ってからそのまま去っていく。更衣室を利用するものは少数で、午後に会議や室内での仕事が控えている者、つまりは最低でも小隊長以上の管理職ばかりだ。別には、のんびりと身なりを整えている間に一般食堂が占拠されてしまうという、切実な理由もある。
 幸いというべきだろうか。ただでさえ閑散としている談話室を通るのは第一師団、いわゆる騎兵師団の隊長格ばかりで、クリスを認めて一瞬驚いた顔はするものの、声をかけてくるものはいなかった。
 そのことに若干拍子抜けしつつ、手持ちぶさたに待つこと十数分。
「悪い。待たせた」
 既に気付いていたのだろう。真っ直ぐに向かい来るレスターを認めて、――クリスは一歩後退った。
 見咎め、レスターが眉根を寄せる。
「どうした?」
「……無駄だ」
「は?」
「服、きちんと着ろ。その色気は無駄すぎる」
 もともと妙に華のある男である。加えて裏庭の井戸で水でも浴びたのか、湿った髪と着崩した軍服という追加効果は洒落にならない。彼に恋するお嬢様がたが見れば、間違いなくひとめで卒倒するだろう。
 言えば、レスターはにやりと口角を上げた。
「何? ぐらっときたか?」
「莫迦言え」
「正直に言ってくれて構わない。君の妻には黙っておいてやる」
「喜びそうだから話されても問題は、……じゃなくて、きちんとした格好のお前しか見たことがなかったから、驚いただけだ」
 前半の問題発言に明らかに引いた様子で、レスターは大人しく衣服を改めた。開いていた胸元のボタンを留め、上着を羽織る。そして髪を撫でつければ、普段より少しばかり艶のあるレスターのできあがりだ。
(うーん、この体に慣れてなかったら、ガン見してたな……)
 危ないところで踏みとどまったクリスは、至って健全な兄の為に咳払いをして邪念を振り払う。
「ところで、昼食はいいのか?」
「午後からの会議は特例を使って欠席だから時間はある」
「ようするに、サボりか」
「特捜隊に貢献するための独自調査が必要と判断したまで」
「ものは言い様、だな」
 肩を竦めれば、レスターは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「まぁ、建前はともかく、敢えて欠席とは、レスターも俺に用事があるのか? 朝はそんな様子はなかっただろう」
「マイラ・シェリーの件を調べたら、気になることがあったからな」
「いつの間に……」
「それなりの伝手はある。後は事実と謎を組み合わせるここの問題だ。訓練の合間にもできる」
 ここ、と言いつつレスターは側頭部を指で小突いた。暇を見つけて考えをまとめるだけだと言いたいのだろう。さも簡単そうな口ぶりだが、むろん誰にでも出来ることではない。
 そういえば、とクリスは思い出す。初めに顔合わせをした席でも、レスターやダグラスは少ない情報から話の核心へと辿り着いていた。物事を様々な方面から考える癖が付いていて、それから先を引き出すだけの知識と経験と想像力があるのだろう。
「それは、聞いても良いことか?」
「勿論。だが、場所を変えよう。付いてきてくれ」
 誰が通るとも判らぬ場所だ。クリスに異論はない。
 だが、談話室を出て広間を抜け、東棟を過ぎ中庭へ出たところでさすがに彼は眉を顰めた。今朝ヨークに連れられて辿った道とは異なるものの、方面として軍部を出ようとしていることには違いない。周囲を気にせず話す場所へ移動するだけだと思いこんでいたクリスは、慌ててレスターの袖を引いた。
「そっちは財務省だろう。どこへ行く気だ?」
「王宮方面だ。前に、君とやり合っただろう? あれから何回かこの辺りを行き来して、そうだと思える場所が確定した」
「あの、逃亡者の逃げたところか!?」
「と、推測される場所だな」
「だが、それとマイラ・シェリーとどう関係……、……あ」
 言いかけて、クリスは口を手で押さえた。


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