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 水路の王宮側、つまり新しく造られた城壁側は古い方に比べて急階段上に高くなっている。そこに丁度クリストファーの背丈ほどの横穴が空いているのだ。目を凝らせばそれがひとつではなく、適当な間隔をおいて幾つかあることが見て取れる。
「もともとは側道の先に水を引き上げる井戸があったんだろう。今は殆ど途中で行き止まりになっているが、ひとつ、長いのがある」
「どこかに繋がっているのかは……」
「判らない。だから、君を連れてきたんだ」
 レスターの言葉は明らかに説明が不足しているが、判らないというほどではない。ようは、ひとりで進む危険を考えて、先に進む者か後ろを警戒する者を仲間にしたかったのだろう。組織と関わりのある人物が逃げ込んだ場所だ。いつどんな偶然でタイミング悪く組織の人間と出会ってしまうかなど判らない。
 横穴のひとつからカンテラを取り出すという用意周到さを見せられれば、クリスに断る余地はなかった。肩を竦めたあとで了解を示すべく自ら横穴に近づき、中を覗き込む。
「……俺が追っていた男は、ここを通って逃げていったのだと思うか?」
「この横道が真っ直ぐに伸びているとすれば、行き先は王宮敷地内ということになるが、そこへ向かったというのは早計だな。横道のひとつでやり過ごすつもりだった可能性もある。王宮へ向かったのだとしても、王宮に協力者がいるとも断じきれない」
「考えても仕方がないと言うことか」
 呟き、クリスは横道へと足を踏み入れた。
 今この場にいるのは、逃した男の足跡を辿るためではない。王宮で働いていたはずのマイラ・シェリーと近衛兵が、出入り審査も厳重な王宮の中から姿を消し、外で目撃されたという状況の尻尾を掴むためだ。むろん普通に考えれば、王宮内の警備事情を知っている近衛兵による手引きというのが妥当な線だが、それにしては些か逃亡した後への工作が杜撰に過ぎる。
 そもそも、マイラ・シェリーは男と共に逃げたのか。爆破事件の際の関与を疑われている近衛兵が、マイラ・シェリーを害するために王宮から連れ出したのか。ふたりの関係という情報が抜け落ちているためにそのあたりが判らない。
(ヨーク・ハウエルがわざと隠してたのか、まだそこまでの情報が集め切れてなかったのか……。時間を考えれば後者だろうけど)
 妥協したふりをして肝心な点を隠すというのはよくある話だ。そこまでを思い、クリスは緩く頭振った。今は考える時ではない。目の前にあるものから情報を集める状況だ。
「しばらくは真っ直ぐなのか?」
 少し進んだ後、柔らかい土から固い石の感触に変わったあたりで、クリスは首だけで後ろを向いた。
「どうだろうな。この前はあまり奥まで行かなかった」
 言い、レスターはカンテラを高く持ち上げる。むろんのこと、それで行き着く先が見えるわけもない。
 つまり、この先は未知の領域だ。警戒してしすぎることはないと判断し、クリスは慎重に歩を進めた。頼るべきは光だが、進むふたりの影を長く伸ばすカンテラの灯りは、拠り所であると同時に不気味な演出にも一役買ってしまっている。どことなく湿った冷たい空気に饐えた臭い、時折足下を何かが這う音もする。正直、総合して考えるまでもなくあまり長居したい場所ではない。
 人ひとりがようやく通れる程度の横幅に辟易しつつ、無言のままに進むことしばし。道の上下左右満遍なく視線を走らせていたクリスはふと、頬に風を感じて足を止めた。
「これは、やはりどこかに通じているな」
 ほぼ同時に、レスターがやや固い声で呟いた。
「先はまだ何も見えないが、どうだ?」
「いや、真っ暗だ」
「誰かが付けてる様子も、崩れそうという様子もないな。進むか」
 後方に向けていた体を戻し、レスターがカンテラを揺らして促した。退路が確保されているのなら、クリスにも異存はない。
 それまでよりも緊張を強めつつ、一歩、二歩。互いの息づかいが聞こえそうなほど神経を研ぎ澄ましながら足を動かしていく。故に歩みは遅く、実際には大した距離は進んではいなかったのだろう。
 揺れる光が己の影を伸ばし、縮め、それに合わせてクリスは視線を動かしていく。そうしてそのうち、クリスはあることに気付いて瞠目した。
「……レスター、引き返した方が良さそうだ」
「何か、あるのか?」
「あそこに」
 クリスの頭擦れ擦れの天井を見上げて呟けば、後ろでレスターも同じく目を向けたようだった。
「苔が一部抉れている。壁にも傷が」
「新しいな」
 言い、レスターは腰の剣を鞘ごと外し、ゆっくりと上に掲げた。
「ここでこれくらいの剣を下から斜めに切り上げれば当たる、それくらいの位置だな。振りかぶって叩きつけるとなると先に壁の方でつっかえる。苔を抉って滑り、壁で当たって止まったと言うのが正解のようだな」
「もう少し背が低い場合はどうだ?」
「剣の長さや使い方にもよると思うが、……君が会ったという例の『ルーク・セスロイド』はどうだ?」
「そんなに高くない。むしろ低い方だ。近衛兵は……」
「近衛は入隊基準に容姿と体格が入っている。少なくとも、低くはないだろう」
 照らし出される互いの顔を探るように見つめあい、やがてレスターが深く息を吐き出した。
「わかった。引き返そう。実際に通ったのだとしたら、今の私たちでは残された何かの証拠を知らず知らず消してしまう可能性がある」
「ああ」
 レスターの声に、予想が当たったという喜色はない。むしろどこか苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「お手柄、になるんじゃないのか? こういうのは」
 些か踏み込みすぎかと思いつつも、クリスは首を傾げて率直に理由を問う。だがそれにはすぐに答えを返すことはなく、レスターは横道から出ることを先に促した。
 確かに、方針が決まった後に長く留まるような場所ではない。周囲に触れぬよう、ある意味入るときよりも慎重に出口を目指した二人は、ふたつの城壁の間から見える薄曇りの空を見上げて揃って深々と息を吐き出した。
「さて、先ほどの答えだが」
 更に戻り、初めに通った旧城壁の穴を越えてから、レスターはおもむろに口を開いた。
「手柄にはなるだろうな。だが嬉しくはない。むしろ、嫌気がさす」
「すまん、俺には判らんのだが」
「五年前、王宮にも散々捜査の手が入っているのは知ってるな?」
 影が、前方を行くレスターの問いに答えて揺れる。
「人が通れるほどの道があるなら、それも鍛えてもいない女ですら通れるような道なら、その時に発見されている。手入れには慣れてるはずのゼナス・スコットや他の幹部連中が拠点にあれこれ細工する暇もなかったほどだったんだ。捜査官の目をくらますほどの隠蔽などできはしない」
「それならつまり、その時にはなかった道が今は出来ていて……」
 考えをまとめるために言いながら、クリスは自分の顔が強ばっていくのを感じた。
「この五年で造られたからには、今尚王宮に、組織の関係者がいるということか」
 それが、レスターの結論だったのだろう。クリスの低い声に頷き、レスターはその根拠を否定材料をして付け加えた。
「この五年間に造られたわけではなく、物語によくあるような、王族専用の抜け道に使われるような秘匿性の高いものが仮にあったとしても、一介の近衛兵や入り立ての女官が知っているわけがない。逆に、王宮の下っ端役員が知っているような抜け道を法務省の上層部が知らないとも思えない」
 『ルーク・セスロイド』のような事件のキーとなる、明らかに人身売買組織でもそれなりの地位にあったと思われる者が利用していただけなら、或いは前者の道であるという可能性もあった。だが、今回はそれが否定された形となったのだ。
 ヴェラの推測するように、レスターが王宮の権力回復を狙って特捜隊にねじ込まれた人材だとすると、これほど苦いことはないだろう。組織の闇の部分を曝く材料を欲する一方で、それを闇に葬ろうとするものが隣り合わせに存在するのだ。
「五年前以降、王宮に調査は全く入っていないのか?」
「何度かは入っているだろうが、王宮の体制は古い。君も、この間来たときに知っただろう?」
「ああ。随分と排他的だった。……だが、王宮の方は無理としても、爆破事件後、この場所の調査はされなかったんだろうか? 王宮方面へ逃げた人物が居ると判ってるなら、捜査官がこのあからさまな場所を見逃すとは思えない」
「それは、私も疑問に思っていた。前にひとりで調べに来たときも、今日も、全くすれ違わないのだからな。正直今日くらいは、誰かが居ると思っていたのだが」
 さすがにレスターも、法務省の捜査の実情までは入手する手段をもたないようだ。そのことにどこか安堵しながら、クリスは後頭部を掻いた。そうして、一度は保留にした考えを再度提示する。
「仮に、爆破事件の時にはこの横穴が使われていなかったのだとすると、あの男はどこから逃げたんだと思う?」
「私とクリスがかち合った時には、横穴のひとつに隠れていたと見るべきだろうな」
「だが、やり過ごしたとしても、その時にはもう、財務長官の手配で検問所も設けられていた。軍部やその他の施設から出る道も警備が増やされていただろう? 中に潜んでいたというには、外国人労働者の老人を殺すまでが早すぎる気がする」
「そのあたりは判らないが……」
 目を伏せ、レスターは腕を組む。
「このあたりの構造について、組織に関わる人間が詳しく知っている可能性がある」
「というと?」
「ブラム・メイヤーが王宮の増築に関わったとき、作成されたのは建物や庭園だけではないと思っている」
 言葉を切り、レスターは真正面からクリスを見つめた。
「組織のために、王宮を含む周囲の見取り図が作られた――とは思わないか?」


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