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13.


 夜に降り始めた雨は、翌日になっても勢いを衰えさせることはなかった。
 横穴の異変を発見して後、天候がよければ、という条件付で許可された法務省の調査への参加は、朝の土砂降りの音と共に潰えた形となっている。ままならないものだ、とクリスは窓の外を眺めながら小さく嘆息した。
「あなた、折角なのですから、ゆっくりなさったら?」
「そうは言うが、このところ休んでばかりだろう」
「そのうちまた、お仕事で家を空けっ放しになさるんでしょう?」
「……言うようになったなぁ」
 ぼやけば、ふふ、とエマが笑う。もともと芯は強い女性ではあったが、このところそれが表に出てくるようになったようだ。いい傾向かと思いつつも、クリスティンという凭れ掛かるべき存在がなくなった事に起因しているのだとすれば、いささか気分は複雑だ。
「贅沢だよなぁ……」
 自分の居なくなった世界の変容を見る事が出来たのは、幸か不幸か。安堵と寂寥感が絶妙なバランスで混在している。
 不思議そうな目を向けるエマに曖昧な笑みを返し、クリスは雨用のマントを手に取った。
「あら、どこかお出かけに?」
「仕事に行くわけじゃない。すぐ戻る」
「そう言って、この間は戻らなかったのはどなた?」
「あれは、――たまたまだ」
「はいはい。今日は思わぬことに首を突っ込まないように気をつけて下さいましね」
 仕方ないとばかりに言い、さっと身を翻すエマ。方向からして、おそらくは帽子を取りにいったのだろうとあたりをつける。
 そんな彼女の背中を見ながら、クリスは首を傾けて頬を掻いた。
「ホント、強くなっちゃって、まぁ……」

 苦笑に近い言葉を吐いた彼はしかし、――否、故にか。出て行ったエマが何かを堪えるように固く目を閉じたことに気付くことはなかった。

 *

 帽子のつばを打つ雨の音を聞きつつ、クリスが早足に向かった先はアントニー・コリンズの家である。気まずい雰囲気のまま別れたことが、どうにも気がかりだったのだ。
 だが、生憎というべきか、当然というべきか、アントニーはすれ違いのように出かけたところということだった。対応に出た彼の母親の何処か窺うような視線は、今となっては見慣れたものである。定型句のような励ましのうち心だけをありがたく受け取り、クリスは早々にコリンズ家を後にした。
 若干小降りになった雨の下、素直に家に帰るべきかと自問する。エマの皮肉ではないが、この先、特捜隊の急用で予定外に家を空けることも多々あるだろう。この間の夜勤のように、軍からの要請がくる可能性もある。
 この際病気や負傷後の休養をゆっくりと取っておくべきか、或いは、空いているときに某かの用を済ませておくべきかを悩み、クリスは結局後者を選んだ。
(実家も近いし、……たまには寄らないと随分と心配もさせてるし)
 思い、クリスは実家へと足を向け――彼はものの数十分もせぬうちに後悔する事となった。
「何があったんだ?」
 自宅の門をくぐったあたりから、なんとなしに騒がしいのには気づいていたが、今更、冷えた体を温めもせずに引き返す気にもなれない。そうして、暖かい茶を欲するままに入っていった事が間違いだったのだろう。
 いきなり家に入ったにも関わらず、誰かがやってくる様子すらない。混乱する家の中を見て大声を上げたクリスに、ようやく訪問者に気づく始末だ。
 比較的入って新しいメイドが何者かと怪訝な視線を向ける中、クリスを認めて駆け寄って来たのは古参のアディラだった。
「若様!」
「挨拶はいい。それより、何が?」
 蒼褪めた顔で駆け寄ってきたアディラを促し、クリスは混乱の原因を問いただす。
 要領を得ない話をまとめると、要は父親が関わる商売上に問題が生じたということだった。現在取引の関係で隣国にいるパトリック・レイの代理を務める男が急病で自宅待機、その間に更に業務代行していた者が、引き継ぎのミスからか、入荷におけるトラブルをおこしたという。
 勿論現場では最大限の努力が行われているが、トップとそれに続くまとめ役の不在と言うこともあり、大きな手が打てないままにある。商館の職員は勿論のこと、下働きを含めての大騒ぎになっており、それがレイ家にまで波及したのだ。なんとかパトリック・レイに連絡が取れないかと右往左往しているようだが、急に言ってなんとかなることではない。連絡がどうにかついたところで、そこまでに消費する時間を思えば、掴んだ藁共々沈んでいくようなものだろう。
 妙なタイミングで来てしまった、と額を抑え、クリスはバトラーを呼ぶ。
「荷の遅れは? どの程度だ?」
「はい。この者達が申すには、」
「穀物他、食材が問題です! 他は通常の交易品ですが、それらは特別に手配を頼まれたものでして……」
 言いかけた内容を横から奪うように、商館からやってきたらしい男が悲鳴混じりの説明を始める。顔見知りではないが、バトラーに対するクリスの態度などからどういう立場かを把握したのだろう。
「期限は今日の昼ですが、どうやっても夕刻にはかかるんです!」
「遅れの原因は?」
「到着予定日の連絡が一日間違っていたのです。検問を通るための証明書を携帯し忘れた為に時間が掛かってしまったとかで。修正の連絡は先に別の者に頼んだとのことでしたが、代理の者は聞いておらず、館長も高熱でそれどころではない状態で……」
「莫迦な。そんな大事なら管理記録に残すはずだろう!?」
「それがどこにも」
 忙しなく汗を拭く男を横目に、クリスは館長の姿を思い浮かべた。ここぞというときに博打を打てない性格のため独立することは難しいが、誰かの下で働くならば堅実に何事もこなせる有能な男だったはずだ。真面目さにかけては間違いなく太鼓判を押せる人物である。
 そんな彼が単純な記録不備を犯すとは思えない。
(だとすれば、連絡の方がどこかで途切れたわけだが)
 事故か、どこからかの妨害か。――だが、それを追究している時間はなさそうである。
 瞬時に判断を下し、クリスは男へと向き直った。
「最低限の必要量は? 取引相手は、内容からするとどこぞでパーティなどをするといった感じか?」
「はい。二位貴人と鉱山関係の三位貴族の婚姻のパーティで、特に後者とは前々からの取引があります」
 なるほど、とクリスは顎を撫でた。レイ家は主に物の移動を持って儲けを出しており、生産する側との信用問題は重要となる。取引相手の名を確認し、数ヶ月前までの知識を引っ張り出したクリスは、けして手を切ってはいけない相手と判断した。


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