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幕間1


 ふわり、ふわり、花びらが舞い落ちる。今は場所を変えてしまったはずの春の木が、甘い匂いを風に乗せる。鼻歌を歌えば、窓の外に残る冷たい風も散っていきそうな快晴だ。
「ご機嫌ですね」
 すれ違ったメイドのアディラが微笑を浮かべながらクリスティンに挨拶をする。
「何か良いことでも?」
「この調子なら大丈夫って、お墨付きもらったからね。あー、久々に馬に乗りに行こうかな」
「ずっと机にかじりつきでしたものね。手配しましょうか?」
「や、いいよ。まだそうするって決めたわけじゃないし」
「左様ですか。ではまた、声をかけてくださいまし」
 言い、礼をして去るアディラを見送りながら、クリスティンは鼻歌を再開する。若干外れた音程も気にならないほど気分が良い。
 法務省の捜査官になりたいと言いだしたクリスティンの希望に合わせ、家庭教師の数が増えたのは二ヶ月前だ。これまでも将来独り立ちしても困らない程度の汎用性のある勉強――計算、読み書き、経済の話から礼儀作法といったものだ――は学んでいたが、法務省や財務省への就職となるとそれだけで足りるわけもない。
「いっきに倍増したのには参ったけどなー……」
 自分で言いだしたことだけに引くに引けず、泣き言など言うものかと頑なに誓って教師に挑む毎日に、さすがに根を上げかけた矢先に太鼓判を押されたのだ。実際に試験を受けるのはまだまだ先の話ではあるため油断は禁物だが、今の時点でこれを嬉しいと言わずなんと言おう。
 浮き立つ足取りで外へと向かうクリスティンは、肩にかかる髪を揺らしながら光眩しい庭先へと目を向けた。
 ――と、若葉の向こうに動く影がある。
「兄様?」
 そう広いとは言えない庭で短めの槍を振るっている姿に、クリスティンは驚いて声をかけた。
「どうしたの? 槍なんて持ち出して」
「練習だ」
 鋭い音を立てて回された槍が、クリストファーの手の中で綺麗に動きを止める。そのぶれのない軌跡を美しいと思いながら、クリスティンは肩を竦めた。
「そりゃ、見れば判るけど。重くないの? それ」
「ティーナには無理だ」
 クリストファーは、主に親しい面々の間ではクリスティンをティーナと呼ぶ。本来クリスティーナと名付けられる国での愛称だが、まさかクリスと呼ぶわけにもいかないための苦肉の策だ。そういう意味では渾名に近い。
「別に私が振りたいわけじゃないよ。今日は剣じゃないのかなって思っただけ」
「歩兵部隊の主な武器は槍だ」
 剣は携帯性にすぐれているが、戦術が求められる集団戦闘での第一選択武器ではない。騎兵の繰り出す突撃に対抗しようと思えばどうしても遠距離、または中距離からの攻撃手段が必要となるからだ。また訓練を受けた長槍兵の密集隊形からの攻撃は洒落にならない威力を誇り、迎撃から弓兵の援護まで幅広く活躍できるため、大規模な戦争では移動の困難さを押してでも造られる部隊となっている。
 むろん、戦術もなにもない混戦状態となってからの武器の選択は自由だ。そういう意味でイエーツ国軍への入隊には剣と槍、弓のある程度の習熟が必須とされている。
「……本気で軍人目指すんだ」
 ぼそり、と呟いたクリスティンの言葉への返答はなかった。当たり前だと思っているのか、ここ数ヶ月の父親との諍いに心が固くなっているのかは判らない。
 レイ家は一応三位貴族に名を連ねる商家だ。幅広く荷を扱い、その影響範囲は王都を越えて辺境の地にも及ぶ。専用の商船や護衛団まで併せると結構な従業員人数となるだろう。大きな山には関わらないためか中堅の域を出ることはないが、堅実な商家として地に根付いた商売は広く信用を集めている。
 至って順風満帆。唯一の問題は、跡取りだ。基本的に荒事に関わることも多いため、やはり男の後継者が求められているのだが、クリストファーの心はと言うと推して知るべしといったところか。
 正直なところ、あまりクリストファーは口や腹芸を必要とする商人には向いていない。だが体格や表情、寡黙な様子から妙な威圧感や存在感があり、そういった意味でのカリスマ性は充分に期待できるのだ。
 ふ、とため息を吐き、クリスティンは兄の姿を見つめた。
 クリストファーは強い。剣を教えている師ですら時に賞賛するほどだ。才能と言うよりは体格の優位性と努力の結果だが、それだけ彼が体を作り技を磨くことを厭わない心の表れということだろう。
「兄様は何で軍人になりたいの?」
 国軍への入隊は16歳から可能となるが、実際に合格となるのは体格のできあがるもう少し後になることが多い。わざと落として入隊への気持ちを確かめているとも噂されるほどだ。国内の少年兵が居ないわけではないが、殆どは地方組織がその采配内で雇うものであり、正式には軍人ではない。
 故にか、15歳を過ぎたあたりから商船や隊商に随行しはじめた時には、クリストファーも反抗する様子は見せなかった。そんな彼が父親と進路について本格的に戦い始めてからしばらく経つが、クリスティンは彼の思惑を知らずにいる。商人の仕事を実際に体験した結果、クリストファーの心には合わなかったのだろうと勝手に決めつけていたが、さすがに諍いが長期化すると気になるようになってくるものだ。
 そういう想いが凝縮された結果か、今更ながらにふと口を突いて出たクリスティンの言葉に、クリストファーは動きを止めた。
「救われたことがあるからだ」
 もとから寡黙な男だ。だが首を傾げた妹を見て、さすがに言葉足らずだったと気付いたのだろう。僅かに苦笑したあとで、無心に繰り続けていた練習用の槍を地面へと立てた。
「お前は知らないだろうが、俺がまだ小さい頃、洪水に見舞われたことがある」
「え!?」
「その時、軍の一団が来て、それまで我先にと混乱しつつ逃げていただけの皆を誘導した。ものすごい雨風の中、道を拓き率先して危険に立ち向かい、時には逃げる面々の喧嘩の仲裁までやって避難させてくれた。正直、彼らが来なければ俺たちは全滅してただろう」
「……そんなことがあったの」
「別に、戦いたいとかじゃない。強くなりたいだけじゃない。今度何かあったときに自分の周りを助けるためにどうすればいいかと思ったら、そういう技術を身につけるにはやはり軍に入るのが一番だと思った。だからだ」
 珍しく長々と喋った後で、そのことを後悔したのだろう。誰にも言うなと念を押した後で、クリストファーは再び自主稽古を再開した。
 それを見て、クリスティンは思う。
 法務省所属の捜査官になりたいということに別段、強い思いや正義感があったわけではない。体を動かすことが好きで知らぬ事を知らぬままに放っておくことが苦手で、そして勉強も努力も嫌いではなかった。それに合致する進路が法務省への就職だっただけで、確固たる信念があったわけではない。
 言ってみれば、それらの根底にあるのは前途への希望と憧れだ。


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