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 故に、親の強い反対にあいながらも自分の意志を通そうとする兄の姿を羨ましく思った。自分の浅い考えと現実味のない単なる理想でしかない将来像が、酷く矮小に思えてならない。
「……そっか」
 兄の頑なな様子が腑に落ちると同時に、胸中に膨れあがるものがある。
 しばらくの間兄の姿を見つめ、そうしてクリスティンは踵を返した。幸いというべきか。下手すればひと月も家を空けることのある父親が、今日は家の書斎で仕事を片付けている。
 そうしてクリスティンは、見た目にも重そうな扉を叩いた。
「父様。――話があるんだけど」


 それはクリスティン14歳、クリストファー18歳の初春のことであった。

 *

 窓から、薄い光が差し込んでいる。装飾ひとつない煤けた天井に、質の悪いガラスをはめ込んだ窓。どこかで見たような室内にクリスは何度か瞬いた。
「ここは……」
 呟きは若干掠れている。上体を起こし周りを見回せば、妙な怠さが両肩にのしかかった。何か夢を見た気もするが、覚えてはいない。
 しんと静まりかえった室内に、他に誰かが居る様子はなかった。ベッドの他には板に脚を付けただけのテーブルと椅子、半分ほどに減った水差しが置いてある程度だ。具体的にどこだと確信できるようなものは何一つなかった。
(服は同じだが、剣は、……あるな)
 ベッドの脇に立てかけられていた剣に気付き、クリスは手を伸ばす。量産型の剣だが、明らかに見知った傷がある。抜けば酷い刃こぼれ、クリスは思わず兄に怒られそうだと苦笑した。
(とりあえず、助けられたと見るべきかな)
 某か悪意のある場所に囚われているとすれば、少なくとも武装解除はされているだろう。
 ここにクリスを運んだ人物に害意がないことを確認し、クリスはゆっくりと立ち上がった。体の重さから体調万全とは言い難い状況だが、少なくともベッドを必要とするほどではない。
 一応の警戒から水に手を付けることはせず、クリスは上着と剣を手に扉に手をかける。冷たく無骨な取っ手は、しかし、その見た目に反して滑らかにクリスの意志に従った。
「お。起きたか」
「!」
 扉の先を確認する前にかけられた声に、クリスはびくりと背を震わせた。焦る気持ちを抑えその方を向けば、すぐ前にやや黄ばんだ白衣の男。腕章からすると、軍部所属の医師といったところか。
 ふ、と息を吐き警戒を解けば、男は口を大きく笑みの形に開けた。
「大した怪我はなさそうだから大丈夫だと思ってたが、いやはや、丈夫だな」
 髭の伸びた強面という如何にも粗野な風貌だが、小さな目が親しげにクリスに向けられている。
「毒の種類が判らんかったから、適当に症状から選んだが、まぁ、合ってて良かったよ」
「毒……」
「足の傷から喰らったんだろ?」
 指摘に、クリスは今更のように痛みを思い出す。
「まぁとりあえず、起きても大丈夫なら寝床は空けてくれ。いつ誰が莫迦やるか判ったもんじゃねぇからな」
「……あぁ」
 曖昧に頷き、クリスは寝かされていた部屋へと目を向けた。
「荷物は、剣だけですか?」
「とりあえず、運ばれてきたときはそんだけだったよ」
「誰が運んでくれたんです?」
「巡回してた奴ららしいが、詳しくは知ら……、おっと、ちょっと待てよ。そういや、お前さんが起きたら知らせてくれっての聞いてたんだ」
「?」
「ちょっと向こうで待ってな。若いのに走らせるから」
 クリスの返事を待たず反対側の扉を指し示し、男は壁の伝声管の蓋を開けた。船舶内でよく使われる代物だが、軍施設内部でもそういった手段での人手の確保が必要で、且つ盗聴という情報漏洩による危険性に乏しい一般医務室などに限り設置されている。
 どうしたものかと躊躇うこと数十秒、上手く用件が伝わらないのか、何度も同じ科白を強弱付けて話す男の前を過ぎ、クリスは示されたとおりの部屋に向かった。本音を言えば男からも情報を得ておきたいところだが、話せば話すほどに確実に男の不審を誘うだろう。明らかに白衣の男はクリストファーを知っており、そのぶんだけ好意的だと判る以上、下手な遣り取りは避けなくてはならない。
(……やりにくい)
 今更というよりは強く、心の中で自嘲する。安っぽいソファに音を立てて体を預け、クリスは長く息を吐き出した。背もたれの上に頭を預ければ、行儀悪く体は下方へとずれていく。
 だらしない座り方の見本のような姿勢のまま、クリスは両手を組んで目の上に当てた。
 ――”つまりそれは、お前が生きることに執着しているという証拠だ”
 ――”口では何とでも言える”
 意識を思考の海に落とせば、トロイと名乗った導き人の言葉が脳裏にこだまする。
(ゲッシュたちは私みたいなのに無理矢理体を盗られた人のなれ果てで、……だから、犠牲者を無くす努力をしていて)
 わき出てくるのは、知らなかった事実に対する苦い思いだ。自分の存在その者が彼らを苛立たせると知っての引け目ではない。望み意図して現在の状態になったわけではなく、その一点を持って彼らがクリスを責めるなら反論する気概はある。
 だが、
(危惧してた通りの状態になってんだもんなぁ……)
 いいことばかりではない。むしろ気苦労は多い。だがクリスは確実に先へ進み始めている。本来、死んでしまったクリスティンにあるはずのない未来への道を。
 指摘されて気付かされた。続いていく日常が、新しい知識が、未知への探求が、――楽しいのだ。
 困ったと言いつつ、面倒が増えることを恐れつつ、それでもクリスは一向に見えない先を苦に絶望したりはしていない。前向きに、クリストファーのふりをしながら自分の意志で生きている。
(ああ、――もう!)
 クリスは、深く陥りかけた自己嫌悪の海に向かって叫ぶ。
(そんなの、当たり前じゃない! 生きたくって当たり前だ!)
 すり切れたソファカバーを叩き、クリスは後頭部と言わず髪をかき乱す。所謂、逆ギレの状態と言うべきか。
(あれもしたい、これもしたい、そういう欲がなきゃ、そもそも生きてらんないんだから仕方ないじゃないの!)


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