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 そうして散々ひとりで悶え、物にあたり、自己弁護の言葉を並べ上げた上で、クリスはようやくのようにふ、と息を吐いた。
(だから、――)
 急襲した感情の嵐が去り、すすり泣きのような雨が心中の海を小さく叩く。
(今だけは甘えよう。いや、甘えるのは今だけだ)
 現在クリスの身辺に起こっていることは、既に途中で投げ出せるものではなくなっている。知ってしまったことに、気付いてしまったことに傷ついて立ち止まっている場合ではないのだ。口にするとおこがましい言葉にしかならないが、現実問題、クリスにしか解決できない事もある。それはきっと、悩み己を悲観している間に進むことはない。
 故に今は数々の負い目に目を瞑る。
 だから、全てが終わった後は、とクリスは窓の外へと顔を向けた。枯葉の目立ち始めた木々が、薄い空を背景に頼りなく揺れている。
(目立つのはまずいとか、もう言ってる場合じゃない)
 クリスティンの交友関係は広い。クリストファーも無愛想ながら頼られるタイプだっただろう。だが、ふたりの間に共通する知人はといえばごく少数だ。現在のクリスが進んで関われる相手はこの少数に限られてしまう。本来、積極的な気質のクリスティンが事件を追っていくにあたり、どちらかといえば受け身になっていた理由はここにある。
 だがもはや、クリストファーの知己にいつ会うかと怯えて人と会うことに尻込みしている状況ではないだろう。先のことは判らない。だが少なくとも、現在渦中にいる事件をどうにかしないことには現状打破はありえないのだ。
(兄様の体を乗っ取る原因は間違いなく、あの事故の時にあった。けど今はそれとは別に、事件のことが気になってる。それが状況をさらに悪化させてる。なら、それをどうにかするしかないはず)
 思惑はどうであれ、ダメージを負ってまで協力してくれたゲッシュに応えなくてはならない。
 では今後どうするべきか。そう考え、これまでのことを自ら総合的に分析したことがないと気づき、クリスは後頭部を掻き毟る。これでは方々から莫迦にされても当然だとひとしきり唸り、そうして彼はひとまず整理しようと、椅子に深く座り直して腕を組んだ。
(そもそもは事故から……、いや、全部のはじめはやっぱり、セス・ハウエルとバーナードチェスターがゼナス・スコットを追う時点からかな)
 クリスの知る最も古い出来事は十七年前にバーナード・チェスターが汚職により財政局局長の地位から追放されたところからだ。むろんそれ以前よりハウエルとチェスターはスコットの調査をしているが、正確にいつ何が切っ掛けでそうなったのかは判らない。
 そうして五年後、今から十二年前にチェスターが自殺。その日付の謎のメモがハウエル家に残っていた。紙片のもとである手帳は行方不明で現在ヨーク・ハウエルが探している。
 問題は手帳の行方と、汚職で表舞台から消えた後、何故その時期になってチェスターは自殺したのかということか。前者に関してはそれが例の”物証”である可能性があるとともに、だからこそそればかり追っていては見つかるものも見つからないという可能性がある。
(となると、調べるべきは、十二年前に何が起きたか? ってことかな)
 今後の方針をひとつ定め、クリスは唇に指を当てた。
(十二年前からしばらく、私の知ってる動きはない、……いや、ブラム・メイヤーが王宮の増築に取りかかったのがそれより前の十五、六年前だっけ)
 細い記憶の糸を探る。
 増築部分におかしな構造や他の場所の不必要な修繕はなかったとされているが、組織に関わった人物となれば完全に白とするには時期尚早だ。だが妙に、チェスターの失脚した時期と重なりが見える。
 結論を出したがる気持ちを脇に追いやり、クリスは深く息を吐いて次へと思考を切り替えた。
(その後か、いつ頃からかは判らないけど、上司だったチェスターの後を継ぐように、ルーク・オルブライトが財政局局長に就いて、セス・ハウエルとゼナス・スコットを追うことになって……)
 五年前、満を持してか、突如ふたりは組織を摘発した。スコットの部下数名が人を売り買いしている現場を押さえ、そこから数々の危険を乗り越えてスコットを追い詰めたのだ。結局、組織の全貌や外国への売買ルート等を完全に曝くことは出来なかったが、国に蔓延っていた巨悪を駆逐し、権力者が首魁であったことを海外へ向けて公表したことは一定の評価を得ている。国の評価を下げる以上に、複数の国に跨る組織の力を憂慮したことを主に国民が認めたためだ。
 取り逃がした幹部も複数存在していたが、法務省がチームを組んでの調査や捜査は二年前に終了。しかし、今年になり巨大証拠物保存期限が迫り、解体前の最後の捜査が行われることとなった。
 そしてクリスの巻き込まれた事故から数日前、スコットの本拠地サムエル地方の廃屋で重要な”物証”が発見される。それは「オルブライト財務長官に関係している」ことである他は、鍵をかけた箱に入れて捜査官一名が王都に運んだこと以外は判っていない。法務省では顧客リストか連判状ではないかと推測されている。
(もともと組織の事件には財務長官も関与しているのに、敢えてそういう伝言を残した理由は?)
 自問自答の片隅に見えているのはチェスターの手帳だ。
 何者か判らぬ「敵」の影が近くにあると気付いていた捜査官二名が、その場ですぐに発見した”物証”の内容を熟読したとは思えない。それが手帳であったとして、重要な文面だと気付いた後にオルブライトの名前を見つけたとしたらどうだろうか。事の重大性を伝えるためにも充分に利用できる名前である。切羽詰まった状況で注目を集め味方の援護を少しでも得たいと思うなら、それを使わない手はないだろう。
(いや、これも断定するのは危険だけど、とりあえず、直属の部下だったわけだし、名前くらい挙がっててもおかしくないし、これなら一応辻褄が合うってことで)
 あとは単純なところでは、オルブライト自身が組織の一員だったという発想だが、組織の摘発の中心人物であり過去にそういった疑惑のひとつも出ていないことから、さすがに斜め上の発想に過ぎる、とクリスは頭振って否定した。第一、法務省の睨む通り連判状だったとして、名前の挙がっていた人物に敢えて身を滅ぼすような物が見つかったなどと知らせるわけがない。
(後は事故の当日……)
 「敵」に某かの細工をされたか攻撃を受けたかをして、捜査官の乗った馬車は住宅街で暴走した挙げ句、高い塀と人を巻き込んで大破した。その際粉塵の中で「誰かが殴り合っていた」という情報と行動に不審のある浮浪者と黒っぽい服を着た小太りの男が目撃されている。それ以降、”物証”は行方不明。殴られた人物は捜査官であり、殴ったと見られる者は現場から消えており、その人物が”物証”を持ち去ったという見方が強い。
 この頃からかそれ以前からか、巨大証拠物となる組織縁の建築物の捜査に派遣された捜査官は、たびたび暴行を含む妨害を受けている。
(私が目覚めた後は、ハウエル法務長官の訪問を受けて)
 数日後、ハウエルとオルブライトによる密談が行われた現場が襲撃され、ハウエルは重症、オルブライトもその場で昏倒、見張りを含む数名が殺害された。
(それで、――って、ちょっと待って。結局長官ふたりは生き残ってる。何のために襲撃したっていうの?)
 これまではなんとなしに、襲撃を受けた直後にオルブライトが救援を呼んだために、ふたりを殺害するという事を成せずに襲撃者は撤退したと思いこんでいたが、その経緯を詳しく聞いた覚えはない。密談現場まで突き止めるような者が、目的と思われる人物だけを見逃すというのはおかしな話だ。ハウエルについては死んだと思いこんだ、とも考えられるが、オルブライトはそこまでの重症ではない。


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