[]  [目次]  [



「どこに向かってるんだ?」
「とりあえず、来てください」
 そこで言葉を切り、ヴェラは周囲に視線を走らせた。そう急いた印象のない法務省内を足早に進む姿がどうやら奇異に映るようで、先ほどから複数の目がクリスたちに向けられている。そんな、慌てて顔を背ける人々への威嚇のようなものなのだろう。
 普通に移動すればよいものをと思わざるを得ないが、どうやら先を急いでいるらしいヴェラに逆らう勇気はクリスにはない。口を閉ざした彼女の後を真面目に付き従い、クリスはどんどんと奥の方へと入り込んでいった。
(嫌な……予感が)
 初めに皆が顔を合わせた場所かと思い身構えれば、すっと、ヴェラは方向を変える。こうなるともはや、クリスにはどのあたりを歩いているのか判るわけもない。判るのは、ヴェラが単独へ法務省の深部へ踏み込めるほどの権限を持っているということだ。付け加えるならば、クリスを呼び出した張本人であるヨークも、ということになるのだが、こちらは親の七光り的な意味で別段予想外というわけでもない。
(ヴェラは総務課所属だったはずだけど……まぁ、単なる事務員なわけないよねぇ)
 そこはやはり、特捜隊に選ばれるのは一筋縄ではいかない者ばかりだったということだろう。
 なにやらいろいろと諦めたクリスが肩を落とし深々と息を吐き出したあたりで、ようやく長い迷路は終着点に辿り着いたようだった。ヴェラは歩調を緩め、近づくと同時に上げた手の甲で、如何にも重そうな扉を叩く。
「お連れしました」
「おや、早いですね。ありがとう」
 むろん、待ちかまえていたのはヨーク・ハウエルである。彼はヴェラを労った後すぐにクリスへと視線を移し、軽く頭を下げた。
「申し訳ありません。私の方の仕事が少し滞っていましたので、ご足労願いました」
「いや、俺のことは気にしなくていいが、――ヴェラは、あなたの部下か何かなのか?」
「いいえ。ヒルトンは検察局総務課の人間なので、少し話を聞くこともあるだけです」
 クリスが怪訝な顔をしたためだろう。ヨークはヴェラに含みのある視線を向けた後、若干苦笑いのような笑みを浮かべながらクリスに爆弾を落とした。
「ヒルトンは、亡くなった捜査官二名の捜査支援を担当していたんです」
「え、」
「――ですので、彼女たちが亡くなるまでに調べていた内容や結果について情報提供してもらっています」
 要するに、”物証”が何であるのかという手がかりを掴むために、殺された捜査官達の行動や発見に至る経過を追っているということだ。
 突然何の前触れもなく見つけたということも当然あり得るが、何らかの切っ掛けから最終的な結果に至ったと考えることもできる。そういった考えをもとにした、法務省が行っている様々な方面からの分析のひとつなのだろう。
 やはり「単なる優秀な事務員」ではなかったかと改めて思いつつ、クリスは気を取り直してヨークへと向き直った。
「ヴェラについては判った。しかし、ここは? わざわざ連れてきたということは、呼び出した内容に関係があるんだろう?」
「はい。まずこの場所ですが。ここは法務長官の執務室です」
「え」
「――とは言え、今年の初めに新しい部屋が出来るまでの古い方ですが」
 つまり、現在重要な決定がなされている場所ではないということだ。
「心配しなくても大丈夫ですよ。古い資料置き場のような使い方しかしていませんから。刑の執行がまだのものや凍結物件についてはありません」
 嘘や誤魔化しがあるわけではないが、どうもヨークは言うべき言葉の順番を変えてクリスをからかっているふしがある。気づき、はっきりと顔を顰めれば、ヨークは可笑しそうに笑ったようだった。
「ですが、レイ。私たちに提供くださった資料、その更に元となった資料がこちらに残っているとのことで、あれから時々、入室許可を頂いているのです」
 口を挟んだのはヴェラで、その内容にクリスは目を見開いた。
 クリスたち特捜隊がハウエル親子から貰った資料はあくまで元となった調書や報告書を判りやすい形にまとめられたものである。そこに抜けや見逃しはなかったかと、ヴェラは原本から読み直しているとのことだった。
 ちらりと目を向けた場所に丁度、クリスの遭遇した馬車の事故の報告書がある。
(事故現場からの回収物――鞄、手袋、空箱三ヶ、袋、中身はレース編み、オルゴール、ガラスの置物――ただし損傷著しく破棄、故クリスティン・レイ所持、返品。剣、短剣、クリストファー・レイ所持、一時法務省預かり。指輪、ネックレス、――損傷、原型不明。持ち主不明。短剣、法務省刻印あり、法務省預かり。……なるほどね)
 実際の報告書を目にしてみれば、これまで頭の中で整理していたものの確認が出来る。そうして新たな発見もあるものだ。現に今、クリスの持っている剣が一時期法務省に持って行かれていたことを初めて知った。
 地味で根気の要る作業だが、確かに有効ではある。
「ブラム・メイヤーに関する資料もあったんですよ」
 言いながら一枚の紙を掲げたのはヨークである。
「それで、今日はこちらに来ていただいたということもあります」
「……ああ、わかった。つまり、ここの資料を見せたかったがさすがに持ち出すことは躊躇われたということだな」
「レイへ情報提供するのなら、私が間接的にまとめなおして渡すと話したのですが」
「素直に渡すのも面白くありませんので」
 ここに至るまでの道のりで、散々警戒し気を揉んだことが莫迦らしくなるような理由だ。
 それならそうと最初からそう言えばいいものを、とヨークを睨めば、彼は口端を曲げて顎を反らせた。
「この間は、あなたの真面目そうな腹芸の苦手そうな見かけに騙されましたからね」
「ちゃんと、顔絵には協力しただろう」
「ええ。ですが、まさか分の悪い交換条件を持ち出されるとは思っていませんでしたので、その意趣返しです」
「あの程度で根に持つとはな」
「持っていませんよ。だからちゃんと交換条件を呑んでこうしてお呼びしたのです。ただまぁ、ちょっとした嫌がらせくらいは我慢してください」
「……充分根に持ってるだろうが」
 ぼやき、クリスは短く嘆息した。
「まぁいい。それで、顔絵と合致する人物は居たのか?」
「いえ、現在逃亡中の人間の中に該当者はいませんでしたね」
 そうか、とクリスは頬を掻く。そう都合の良い展開は転がってはいないらしい。考えてみれば、顔を知られ追われているほどの人物が直接現場に出る必要はないのだ。周辺諸国に未だ蔓延る人身売買組織の構成員の中には、裏で暗躍することを得意とする者もいるだろう。そういった者だとすれば、素性を追うだけ無駄と言うことも考えられる。
 あの男が誰であるのかということはひとまず脇に置き、クリスはヨークが机の上に落とした紙へと目を向けた。
「……メイヤーとの契約書か」
「はい。工事を行う前に定められた条件や報酬に関するものです」
 文面はと言えば、ごく大雑把なものだ。悪く言えばどうとでも取れる表現が多い。特にメイヤー側の条件内容が稚拙に等しく、果たして本人達を介して作成されたものなのかも怪しいところである。


[]  [目次]  [