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14.


 ついにこの日がやってきた。――そう、ルークは鏡の中で蒼褪める自分の顔を見つめて思う。
「そろそろ、お時間です」
 後ろに控えていた副官が、緊張を孕んだ声を絞り出す。まるで戦場に赴くような強ばりようだが、むろん、人のことを嗤える状態にはない。如何にも隙のなさげな仮面の裏では、びくびくと怯える気の弱い男が足を震わせている。
 これまで常に目の前にあった、憧れとも見本とも言うべき男の姿は、今日は求むべくもないのだ。いつまでも頼っているわけにはいかないと思いつつ、その一歩が踏み出せぬままにこの日が来てしまった。
 孤軍奮闘。そんな言葉が目の前を通り過ぎる。否、よほど巧く立ち回らねば、そこに軍があること自体も認識してもらえないだろう。
 最後にもう一度身なりを確認し、いっそふてぶてしい表情の男を睨み付けた後、ルークは鏡に背を向けた。

 *

 王宮の東の棟は、イエーツ国建国以前の外観を保っている。歴史ある建物の、中でも豪奢な一室は、その存在だけで価値があると言えよう。ステンドグラスと名のある絵画が壁面を飾り、天井には隙間無く細かい彫刻が施されている。
 長い歳月を経た木目美しい円卓は深みのある艶をして存在感を誇り、そこに肘をつく者の顔を朧気に映す。
 そんなため息の出るような美しい空間を、雰囲気をして歪めているのはそこに居座る人間達だ。給仕、警備兵、従者を除く6名の、眉間に刻まれた皺は深い。イエーツ国宮廷管理官の長であるセロン・ミクソン、議会代表ルーク・オルブライトを初めとして、周辺諸四4カ国の代表達である。
 会議の主となる議題は当然、人身売買組織「フェーリークス」に関するものだ。どの国にも大なり小なり組織の手は伸びているため、イエーツ国の現状と対応は今、各国の注目を浴びている。そうした中で隣接する国が、内情を探りに出たのだ。表向きは国際的な犯罪組織への対応に関しての会議であり、解決に手間取っているイエーツ国に拒否権はなかった。
 現状をイエーツ国が上手く乗り切れるようなら良し、再び組織が足がかりをつくるような隙を見せるのであれば警戒を、某か失態を晒すならば乗じて旨味を狙う、といったところか。
 これまでの表には出ない外交では各国いずれも協力体制は惜しまないと口にしているが、むろん、それを真正面から信じ有り難がる者はいない。その恩が後でどんな理不尽な要求となって返ってくるか、知れたものではないからだ。
 そうした、水面下に暗褐色の泥流を隠した会議は小一時間ほど続き、今は建前で示された他の議題を終え、本題も核心部分へと進んでいる。
 これからそう長くはかからない。だが正念場だと、ルークは他の面々を見回して目を眇めた。
「国を挙げて探索を続けているにも関わらず、未だその”物証”とやらが見つからないのもおかしな話ですな」
 上品な低音にあからさまな皮肉を乗せてさも不思議そうに問うのは、西方で隣接するレアル国の代表だ。件のサムエル地方のすぐ向こうであるだけに、この国とは国境線で緊張が高まっている。
「そもそも、それは実在するのですかね?」
 殊更眉を顰めて囁くように言うのは北東のエダス国の外交官、それに東隣国ハリトクスの「西方」司令官が強く首を縦に振る。
「何の証拠も見つけられなかった捜査官とやらが、ありもしないことをでっち上げたのでは?」
「それならば、殺される意味が通りません。確かに『敵』は存在します」
「だが尻尾は掴めない、と?」
「お恥ずかしながら」
 セロン・ミクソンが含みを持った笑みで応対する。
「この脆弱な我が国に、よろしければ、フェーリークスの幹部の捕縛方法でもご教授いただけますか?」
 試すように細められた小さな目に、エダスの外交官が頬を引き攣らせた。五年前のイエーツ国を真似て大規模な殲滅作戦を決行し、見事に裏を掻かれたのは有名な話である。さざ波のように起こった密やかな嘲笑に、セロン・ミクソンは鼻を鳴らした。
 こういったねちねちとした嫌みは彼の得意とするところだ。そしてそれは意外にも計算高い話術の上に成り立っている。今の言葉に至る会話も、彼がそうなるようにし向けたようなものだった。
 だが、皮肉と揚げ足取りの応酬だけでは何も得るものはない。周辺諸国がイエーツ国に探りを入れてきているのならば、ルーク達はそれを逆手に協力要請と牽制という名の銛を打ち込む必要がある。
 思いながらもルークは、じっと黙ったまま会議の様子を窺い続けた。
 ――言葉を連ねるだけが交渉ではない。
 そう言って低く嗤ったのはセス・ハウエルだ。彼は目で人を問う。そうして喋る相手の喉を掻き切るようなひとことで場を制する。とてもではないが、今のルークに出来る真似ではない。
(だからこそ、見極めなくてはならない)
 もとからして、イエーツ国の方が分は悪いのだ。下手な攻めは相手の言葉に上手く丸められてしまうだろう。
 そうして進む会場は時に紛糾し、時に沈黙に満ち、それぞれの思惑と駆け引きとでいよいよ終わりを迎えつつあった。予想通りか、セロン・ミクソンは奮闘しているが、いささかイエーツ側が押されている。
 出鼻を挫かれたエダスには勢いがない。若干強引に押してきているのはレアル、ハリトクスだ。
(ベルフェルの沈黙が気になるが)
 このままでは見極めどころか本当に会議が終わってしまう。思い、ルークは攻めの手が切れる僅かな間を突いて手を挙げた。
「失礼ながら――」
 ルークは、目を細めてそれぞれの顔を見回した。
「先ほど、我が国でフェーリークスの後押しを得た賊が国境周辺を荒らして困る、とレアル王国の方は仰いましたが……」
「ええ。繰り返しましょうか? 被害の状況と詳細をもう一度言っても構いませんよ」
 証拠は揃っているとばかりに、レアルの代表は鼻を鳴らす。
 だがその安い挑発には乗らず、ルークは微笑して彼を見返した。
「レアル王国の方には、国境線での検問及び荷物検査の強化を進める旨、外交官を通じて正式に話が交わされております。ご存じですね?」
「こちらの軍の検査が甘いせいだといいたいのですかな? 申し訳ないが、賊の根城はそちらの国にあり、そちらの国からの入国する場合の検問はそちらの――」
「おかしなことを仰います。根城が我が国にあるのでしたら、レアル王国を荒らして戻ってくる際には必ず国境を越える必要があるのではないのですか?」
 さも不思議そうにルークが首を傾げれば、レアルの代表は一瞬息を呑んだようだった。
「さて、我が国では検問の強化と共に国境を越える際の荷物の検査も徹底しております。ですが、賊が善良な民のふりをして通り過ぎる場合は非常に発見することが難しく、村や町を荒らす前のてぶらの状態では怪しいと判断する術が殆どございません」


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