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 *

「及第点、か」
 与えられた客室の扉が閉まるや、ギルデンは目を細め唇を指でなぞった。豪奢なばかりの上着を脱ぎ捨て、カツカツと音を立てて窓際へ寄る。
 毛足の長い絨毯から上着を拾い上げた従者は、どこか楽しげな主の様子に面食らっているようだった。
「何か、おかしなことでも?」
「まぁな」
 磨かれたガラスに映る顔を見て、ギルデンは笑みを深めた。
「したたかな老人が不在となって侮っていたが、若造の方もなかなかにやるようだ」
「……オルブライト財務長官ですか」
「そうだ」
 言い切り、ギルデンは会議の内容を思い出す。
 はっきりと言って、現在イエーツ国は国民が思っている以上の危機に陥っている。精鋭揃いだが数としては他国に大きく譲る軍隊が自衛だけで手一杯の中、主に周辺諸国の干渉をはね除けていたのは、経済力にものを言わせた外交の力に他ならない。現在、その基盤が能力の許容量限界に差し掛かっているのだ。
 隣国からしてみれば、このままずるずると財務長官の奮闘も虚しく組織に喰われるも良し、といったところが本音である。そうなれば国力を落としたイエーツを周辺諸国で更に食いものにするだけだ。おそらくは、地理や経済基盤を考えて国そのものがなくなることはないだろう。だが、張りぼての法の奥で組織と各国の手が暗躍する、そうした魔都となるはずだ。
 国としてのうまみはその方が多い。だが、ギルデンにはどこか面白くない。
 五年前、主に大陸中央部より以南の裏社会を牛耳っていた組織フェーリークスの国内勢力を駆逐したことは、周辺諸国に多大なる衝撃を与えた。これまでどの国でも為しえなかったことを、弱い軍隊しか持たない、さして大きくもない国が成し遂げたのである。しかも国の重鎮が首魁であったことを堂々と発表したことは、国の運命を定める立場にある者からしてみれば度肝を抜く行為だった。
(あの時は、莫迦なことをと思ったが)
 ベルフェルがそうであるように、血統による身分制度が確立した国であったのなら、制度の底辺にいる者達からの強い反発と革命運動が加速したに違いない。だがイエーツ国はもとからして特殊な体制が確立していた国だ。セス・ハウエルとルーク・オルブライト共にそれぞれが法務省と財務省のいち役員からの叩き上げで出世した人物であり、故に彼らの決断は巨悪を滅ぼす活劇のように国民に受け入れられたのだろう。
 周辺諸国も一時期は騒ぎを好機と見て国境を荒らしたが、ふたりを柱に急速に混乱から新体制へと移り変わっていく様子を見て、手を引いていった。
 ベルフェルもまた、南部――イエーツからすれば北部だが――の国境で一進一退の攻防を繰り広げたが、結局は引き分けという形で終結している。第五王子であるトリステンはオルブライトが言ったように、その時の和議に同席した王族だ。
 そして現在、病身の国王、凡庸な第1王子に代わり、裏でベルフェル国を動かしている。
(極秘のはずだが――)
 きょとんとしていた他三国の使者の様子を見れば、その情報を入手しているオルブライト、引いてはイエーツ国の情報機関がそれだけ優秀だと言える。オルブライトは単に協力を感謝すると述べたのではない。余計なことをすればすぐに判りますよと伝えたのだ。
 いまや国力は、純粋な軍事力だけでは計れない。経済力や他国との関係を含めた予防的な防御力があり、情報戦、外交戦を経て最後にようやく力の遣り取りに及ぶ。むろん、強大な軍事力はそれだけで他国に対しての威圧と抑止力となるが、逆にそれが要らぬ事件を引き起こすこともある。
(金と情報収集力、混乱していてもそれが衰えてないとなると、今のところは手出しはせぬほうがよいか)
 ぬるま湯に浸りきった本国の貴族どもに見せてやりたい底力だと苦笑しつつ、ギルデンは無精髭にざらつく顎を撫でた。それを見て、考え中の主が結論を出したと判断したのだろう。音もなく近づいた従者は明日の天気を話すような口調で主に問うた。
「予定は中止、で良うございますか」
「ああ」
「では、滞在予定は如何なさいますか? すぐにお戻りで?」
 これには、ギルデンも少しばかり考え込んだ。会議の前はイエーツ国を揺さぶるべく、あれこれと用意した言い訳を楯に実質内情を探るための長期滞在を行う予定だった。だが財務長官の様子からすると、それも些かメリットに乏しいと判断される。
 居続ける意味はあまりない。国へ帰って対策を練り直すことが望ましいとは判るが、ギルデンの勘が何故かそれにストップをかけていた。そうして、根拠の欠片もないそれを、ギルデンは何よりも信用することにしている。
「いや、しばらくはここに残る」
「何かなさるおつもりですか?」
「他の国の奴らは帰るだろう。が、特にレアル方面がきな臭い。あそこは国力が弱いぶん、フェーリークスの連中の鼻息も荒い」
 五年前にイエーツ国でのフェーリークスの首魁とされた男が、領主として赴任していた土地と接する国だ。当時それなりの煽りを喰らっていたこともあり、ベルフェル、エダス、ハリトクス三国が揃ってイエーツに侵攻したときにも加わることはなかった。結果としてそれが幸いし、大陸を横断する街道を封鎖されることはなかったが、現政権が成り立って以降、関税の取り締まりが強化されたためにそれ以前と比べて苦しくなっているようだ。
 イエーツ国内の混乱に乗じて戦争を吹っ掛け優位を得ようと、企みのひとつやふたつは持っているだろう。
「我が国としては、それで返り討ちに遭うというのが一番望ましいがな」
「つまり、閣下がここに留まり親交を持つことで、イエーツと某かの手を組んでいると思わせるということですか」
 従者の言葉に頷き、ギルデンはコツコツと床を鳴らす。それはそれで面白い結果を生むとは思うが、言ってみれば「居るだけで用を為す」状態では退屈に過ぎるだろう。加えて、戦争という事態を加速しかねない理由での滞在など、受け入れてもらえるわけがない。
 顎に指を当て、ギルデンは思い出すように眼球を上に向けた。
「……あの男は何と言ったかな」
 呟きに、従者がさすがに困ったような目を向ける。
「南部戦の時に奇襲をかけてくれた、厄介なあれのことだ」
「ああ、あの。……確か、まだ軍部に所属しているとのことですが。勤務先を調べましょうか」
 意図がわからないなりに主の求めることを正確に把握した従者の言に、ギルデンは深く頷いた。そしてこれは、またとない機会だと内心で嗤う。
 他人にしてみれば、何の脈絡もない思いつき――トリステンの絡んだ和議のもととなった戦であるという繋がりはあるが――であるように映るだろう。だがギルデンにとっては、ずっと待ちわびていた機会だ。
 このような国家の問題に掠りもしない理由で、ギルデンほどの立場の者が予定外の滞在をするなど普通であれば即座に拒否されるところであるが、今はイエーツ国にとっての非常事態。人身売買組織のことを気に掛けてと匂わせれば、『若造』ひとりでは突っぱねることも難しいだろう。少なくともレアル国の話を持ち出すよりはましと言える。
(まぁ、全く無関係というわけではないが)
 顎を指で掻き、従者に低い声で命令を下す。
「あの時の奇襲について話したいものだ。――奴の行動を調べて接触を試みてくれ」
 疑問を挟むことなく頷き、従者はその場を後にした。


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