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 誰、と思い、次に喉を鳴らし、冷や汗と共にクリスは一歩後退る。明らかに長い間会っていなかった古い知り合いという様子だが、クリスには女に何かの間違いだと断ずることは出来なかった。クリストファーの容姿は幼い頃と比べて、子供から大人へとそのまま変わった程度だ。充分に面影を残している。
 完全なる不意打ちだ。まさかこんな場所に知り合いが、と混乱する頭が無意識のうちに緩く横に揺れた。
「悪いが、覚えていない」
 動揺を含んで周りの悪い舌が、それ以上どうしようもない謝罪を紡ぎ出す。
「どこかで会ったことが?」
「本当に覚えてないの?」
「悪い」
 眉を顰めた女――マイアに、クリスは同じ言葉を繰り返した。嘯いてはぐらかしながら情報を引き出すことは出来る。だがその答えを聞いた上でもクリスティンには知らぬ可能性が高い。こういった状況下で時々浮上するクリストファーの記憶は、しかし今回は全く出てくる様子もなかった。
 迷走する思考が沈黙を紡ぐ。しばらく探るような視線を向けてきたマイアは、程なくして短いため息を吐いた。
「そう、か……。そうよね」
「……」
「子供の頃の話だものね。それに、洪水の後にさよならも言わずに別れちゃったものね。あんまり覚えてたくはないか」
 続けられた内容に、クリスは思わず眉根を寄せた。洪水、とどこか記憶を抵触する言葉を喉の奥で繰り返す。だが、形のない朧気なそれが脳裏に甦ることはなかった。
「軍に入ったんだ? 喧嘩強かったものね。すごく合ってる」
「なりたかった、からな」
 どこまでも、曖昧にしか答えられないことにクリスは胸の痛みを覚える。そんな彼を前に、寂しそうに、だが懐かしさを奥に込めた表情でマイアは僅かに微笑んだ。
「うん、そうだったね。……ごめんなさい。突然話しかけて」
「いや、俺の方が、悪い」
「気にしないで。本当、ごめんなさい」
 言ってからマイアは、思い出したように苦笑した。
「そうだ。本当はダビ、子供のことを謝りに来たんだった」
「それも、気にすることはない」
「そう。じゃあ後はあの子をとっちめなきゃ。それじゃあね」
「……ああ」
 力なく返事をすれば、マイアは如何にも気まずそうに目を伏せた。そうして、答えのない沈黙の後に一度頭を下げ、踵を返す。
 申し訳ないことをしているのはこちらだと、思わず宙に浮いたクリスの手は、しかしそこで動きを止めた。
 呼び止めて、何を話すというのだろうか。クリストファーの昔話を聞いて何になるというのだろうか。兄妹と言えど、知らぬ過去の中では他人でしかないというのに。
 いずれこの身から去らねばならない。事件以外のことに積極的に関わり、あれこれと間違ったクリストファーの像を残すわけにはいかないのだ。せっかくの貴重な再会を哀しいものにしたという辛さを覚えながら、クリスは額を掌で押さえた。
(”私”だったせいで……)
 マイアの思い出を壊してしまったかも知れない。そう思えば自己嫌悪にも似た苦いものがこみあげる。
「いいのか?」
 静かに問いくるレスターに、クリスは緩く頭振る。何か言いたげに口を開きかけたレスターは、しかし結局は小さく肩を竦めたようだった。必要以上に言葉を重ねなかった彼をして、出来た男だと片隅で思う。
「悪いな。気を削がれた。すぐに聞き込みに」
「いや、止めておこう」
 心機一転といった調子で口調を変えたクリスに、今度はレスターが頭振る。何度か瞬き、次いでクリスは眉根を寄せた。
「何故だ? 今のことなら気にしないでくれ」
「そうじゃない。よく考えればもうだいぶ遅い時間だ。王都ならともかく、こういったところの夜は早い。寝る準備に入った者をたたき起こすつもりか?」
「ついさっきのことだ。まだ――」
「それに私たちには目的があるだろう。王都もそう何日も離れているわけにはいかない。だから、折角宿が準備してくれた寝床で体を休めて、早く目的地へ向かった方がいい」
 な、とレスターは微笑んでクリスと周囲で見守っている宿の女、それにガストンを見遣る。
「今日は本当に難路だった。実は私が休みたいんだよ。一時期の興奮が過ぎると妙に疲れを感じてしまってね」
「しかし」
「それに、私たちがあれこれと慣れない聞き込みをするよりも、法務省の捜査官の方が的確に調べてくれるだろう。ここにいる人たちの記憶をあれこれ変に掘り起こすより、任せてしまった方がいい」
「……」
 躊躇いながらぎこちなく頷けば、レスターは更に笑みを深めたようだった。
 口には出さないが、おそらく彼は気付いている。他にも知り合いがいる可能性を恐れて、クリスが必要以上に表情を硬くしていることに。
 話の上手いレスターが下手な聞き込みなどするわけがない。提案は、むろんクリスを案じてのことだ。それはありがたいことであり情けないことでもあり、故にクリスには、急いた気持ちで強引に反論することはできなかった。
 そうして話が落ち着いたところで、ひとつ大きく掌が鳴る。
「さあ、では休みますか。いやはや、儂も眠くてたまらんのですわ」
 ガストンの陽気な声には無理矢理の響きがある。だがそれはこの場を新しくするには必要なものだった。促すような第一声に続き、宿の者がそれぞれの仕事に戻る。
「では、私たちも寝よう。そうでないと彼らがいつまでも寝られないからね」
 顎をしゃくり、レスターはクリスの答えを待たずに荷物を持ち上げた。そんな彼に、ガストンが用意された部屋を伝えて示す。
 クリスは一度深々と息を吐き、そうして彼らを追いかけた。


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