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16.


 コキ、と頚を鳴らしたクリスを見て、レスターは可笑しそうに口元に笑みを浮かべた。
「疲れたか」
「いや、そうでもない――はずだが」
 返事が曖昧になったのは、怠さという自覚症状を多少なりとも感じているからだ。ガストンと別れてやや道行きを急いだふたりはその甲斐もあって、二日後の早朝には王都へと到着していた。
 ほぼ素通りの検問も終え、レスターの家に寄って馬を返し、今は各省の施設へと向かう道のりの途中にある。陽が昇り始めてしばし、人が活動を始める忙しない雰囲気に押されるように歩けば、ひとつ事を終えた後の安堵がいっそう強く感じられるというものだ。そこはかとない 倦怠感はその副産物なのだろう。
「君はこれからヨーク・ハウエルに会いに?」
「一応その予定だが」
 相手は基本的に多忙である身だ。すぐに会えるとは思っていない。比較的捕まえやすいヴェラを探すか、場合によっては例の部屋に伝言を残すことになるだろう。
「たまにはガードナー隊長にも顔くらい見せるといい」
「……あの人が手元を離れた部下のことをいちいち考えているとは思えないが」
「そう言うな。少なくとも君のことは気に入っているはずだ。でなければ、特捜隊入りに協力するわけがない」
「そういうものか?」
「医者にも判断の付かない病気持ちを、小隊長に留める理由がないというのが軍部の方針だった。それを強引に保留にしたのは知られた話だ。隊長にしてみれば、特捜隊への打診は渡りに舟といったところだったんだろうな」
 なるほどと思う一方で、現状の裏では様々な人と状況に助けられているのだと今更ながらに気付く。好意や厚意だけではないのは判っているが、それでもプラス方面へ働きかけてくれる存在を自覚するのは、ありがたくも照れるものだ。
(って言っても、兄様への、なんだけど)
 レスターの目を憚り内心での苦笑に留めたクリスは、近づいてくる分岐点を前に足を止めた。
「どうした?」
「いや、俺も先に軍部へ行くべきかと思って」
「私が今言ったからか? 素直なのはいいことだが、それでは本末転倒だろう。君には先に報せるべき相手がいるだろう」
「だが――」
「それに朝は会議がある。君もたまに呼ばれていただろう? 大隊長からのお達しがあるあれだ。中隊長以上は今の時間は訓練場には不在のはずだ」
「……ああ、そうか。そうだった」
 言いつつもクリスには実感と呼べるものはない。初出勤前に詰め込んだ知識として納得しているだけである。
「しっかりしろ。君の復帰を楽しみにしている部下もいるのだからな」
 出来うる限り忘れていたという雰囲気を表に出せば、レスターは笑いながらクリスの背を軽く叩く。発破を掛けているのだとは判るが、――前から思っていたことであるがこの男、喋っている時を含めて何気に物理的な距離が近い。
 むろん嫌悪感はなく、馴れ馴れしいと言うよりは親しみが籠もっていると表現すべきだが――
(時々だけど、微妙だよなぁ)
「何を赤くなっている?」
「! え!? 何がだ!?」
「……そうも動揺されるとあれだな。すまないが私にそっちの気はない」
「莫迦言え! だいたいお前は――」
 妻帯者だろうと口に仕掛け、先日の一件を思い出して咄嗟に口を噤む。
 途中で止めた言葉に続けられる他の話も思いつかず、焦りに後頭部へ手をやったその瞬間。
「クリス!」
 遠くから割り込まれた緊迫した声にそれまでの雰囲気がさっと流れ去り、同時にふたりはほぼ反射的にその方を向いた。
「アントニー」
 指摘するような呟きは必要なかっただろう。レスターもすぐにそれを認め、走り来るアントニーから逃げるように一歩クリスから遠ざかった。本来接点がないはずの関係を知人から隠すため、少しでも言い訳の余地を残すための距離である。
 あっという間にふたりの前に辿り着いたアントニーは、切れ切れの息を整えながらクリスへと鋭い目を向けた。
「クリス、今までどこに行ってたんだ」
 その声音は普段よりも低い。睨み付けるという表現がふさわしい表情は、半ば喧嘩別れをした後だからというだけではないだろう。
 いつも朗らかでお調子者で明るいイメージが強いアントニー。まるで別人のようだと思いながらクリスは掠れた声で言い訳を口にした。
「……仕事だが」
「んなこと聞いてねぇよ!」
 叫び、アントニーはクリスに詰め寄った。
「行き先も言わず、ろくに説明もせず、こんなに長い間連絡も入れずに何やってんだって言ってんだ!」
「家を空けることは言っておいたはずだ」
「それだけじゃ判んねぇだろ! 前はちゃんと行き先も言っていたくせに、どういうつもりだ!?」
「!」
 はっと目を見開き、しかしクリスは反射的に動揺を押さえ込んで反論を口にする。
「そういうことを、何故お前がそれを気にする」
「……っ!」
 目を見開くアントニー。
 次の瞬間、場面を切り取ったかのような速度で振り上げられた拳を、クリスは反射的に腕で遮った。思考などは一切介入していない。クリストファーの身体能力と反復訓練のたまものだろう。
 だが続く第二撃、それを受け止め更にアントニーの動きを封じたのは、横から伸びた別の手だった。
「やめろ。ここは往来だ」
 静かな、だが有無を言わせぬ声にクリスははっと周囲を見回した。軍人同士に諍いを見て見ぬふりで通り過ぎる者は多い。だがそれ自体、既に周りの者達に迷惑をかけているということだ。
 ほぼ当たり前のように戦闘態勢に入っていたクリスは、一度深呼吸をして緩く首を振る。それを見て、レスターは視線をアントニーへと移した。
「アントニー・コリンズ。君も」
「……うるせぇよ。あんたに指図される謂われはない」
 低く、アントニーが言葉を吐き捨てる。
「あんただって最近、ろくでもないことにクリスを連れ回して、どういうつもりだ?」


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