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「どうもこうも。君は先に落ち着け」
 制止にも似た鋭い声に一度言葉を止め、しかしアントニーは強く顔をしかめたようだった。
「ちょっとばかし活躍したことがあるからって、いい気になんなよ……」
 アントニーの指先が、作られた拳の強さによって白く変わっていく。
「こいつが北方戦争で何をやったか、クリス、まさか忘れたわけじゃないだろうな!?」
「っ!」
 反射的にクリスはまずいと思った。忘れる以前の問題だ。知らない、だが知っているとも知らぬとも反応できずにただ体が強く焦燥に揺れる。
 だが、それを前者と受け取ったのだろう。大きく息を吐き、アントニーはギリ、とレスターを睨み付けた。
「兄嫁の次はエマか!? この、種馬野郎……」
「アントニー!」
 絞り出された罵声に、クリスは青ざめて声を荒げた。身分云々の問題以上の侮辱だ。華々しいほどの浮いた噂にその根拠があるとは言え、レスターはけしてその手の問題でクリスやアントニーに迷惑をかけたことはないはずである。
 なぜエマの名前がという疑問はあれど、今はそのことを言及している場合ではない。
 言い過ぎだ、とクリスはアントニーを強く睨み付けた。さすがにアントニーも暴言に気付いたのだろう。鋭い視線から目を逸らし、眉間に皺を寄せる。
「っ……」
 気まずい沈黙。だが、それを破ったのは場違いなほどに明るい声だった。
「種馬か、それはいい」
「……レスター」
「実に的を射ている。なに、気にすることはない」
「澄ましてんじゃねぇよ!」
 微笑さえ伴ったレスターに、アントニーは声を荒げて詰め寄った。そうしておいて、顔だけをクリスに向ける。
「お前もこんな奴とつるんで、エマを裏切ってんじゃないだろうな!?」
「莫迦言え! レスターは……」
 言いかけ、クリスは続く言葉を無くして語尾を曖昧に消す。特捜隊は基本的に秘匿を必要とする部署だ。上層部には知れているとは言え、小隊長レベルのアントニーに、家庭の事情を理由に話していいものではない。
 だが、それを話さずにどうレスターとの関係を説明するのか。言い訳を探して黙るクリスに、アントニーの目がそれみたことかと冷ややかな色を帯びる。
「なんだよ。俺には言えないってのか?」
「今は……」
 まだ、と言いかけたクリスを制し、レスターが体の位置を変えてアントニーとの間に入り込む。不愉快にか更に顔を歪めるアントニーを穏やかな目で見返し、彼は充分な間を取って口を開いた。
「彼には、人身売買組織の件で少しばかり協力してもらっている」
「なに……?」
「詳しくは話せないしレイにも聞かせていないが、彼の遭った馬車の事故はただの事故ではない。そこで、彼が意識を失う前にちらりと見た人物を捜すことに協力をもらっている。今回、彼を連れ回す役目がたまたま私だったというわけだ」
「……だったとしても、どこで何をするのかくらいは」
「安全で簡単な任務だなどとは言っていない。この間、現にレイは襲撃を受けていると聞いた。家族や無関係の知人が行き先や詳細を知っていれば、その情報を得に組織が動く可能性がある。その為に言うなと厳命が降りている」
「……」
「君の言い分も判る。だが不安か人命かと言われれば後者を取らざるを得ない。レイも苦しいところだろうが、だからこそ、理解してやって欲しい」
「なんで」
「?」
「なんで病み上がりのクリスがそんな危険な役目に就かなきゃいけないんだ? 断っても良かったんだろ?」
「そうだな」
 一度肯定し、レスターはちらりとクリスに視線を流した。
「彼がどう思ったのかは私には判らない。だが私が同じように身内を亡くしたのなら、押しかけてでも捜査チームに加わっただろう」
「っ!」
「聞けば、亡くなった女性は君の知り合いでもあったそうだね。それならむしろ私よりもクリストファーの気持ちがわかるんじゃないか?」
 レスターは事実を告げ、諭しているように見せかけて実は情に訴えている。アントニーはそれに気付くことなく煩悶している様子だ。
 目には目をというやり方は平等且つ判りやすい方法のようで、実は一番こじれる解決法なのだろう。現に今、激昂に引き摺られることなく仲裁に入ったレスターは、全ての真実など語ってはいないにも関わらず、アントニーの感情を鎮めることに成功している。
 だがおそらくは、今クリスが言葉を挟めば時間は遡行してしまうだろう。何を言っても言い訳にしかならず、アントニーの訴えに沿うこともできないからだ。
 故にクリスは黙って頭を下げた。レスター越しにそれを認めたアントニーが目を見開き、慌てたように大きく顔を逸らす。
 次いで彼は、苦しいものを吐き出すようにクリスに言葉を叩きつけた。
「……エマには!」
 一度切り、大きく息を吸い込んで辛そうな顔でクリスを見つめる。
「エマにはせめて、今のと同じ事くらい説明してやれ!」
「……ああ」
 真摯な声で頷けば、アントニーは一秒、目を閉じたようだった。俯き、肩を震わせ、そうしてそのまま言葉もなく背を向ける。
「すまない」
 次第に小さくなっていく姿を目で追いながら、クリスはレスターへと謝罪を口にした。自身の説明不足と間違った行動から発生した問題に、短いながらも重い遣り取りに巻き込んでしまったのだ。
 言えば、レスターは困ったように眉を下げてクリスを見つめた。
「私のことは気にしなくていい」
「しかし」
「だが、クリス。心配していた相手に『なんでお前に心配されなきゃいけないだ』って、それは言われる方はかなり辛いと思う」
「……」
「君らしくないな。本心じゃないんだろう?」
「……ああ。咄嗟にどう言っていいのか判らなかった」
「そうだろうな。だが、一度ちゃんと話しあった方がいい。彼の怒りは理解不足と情報不足、それに彼の理想の押しつけの混じったものだが、主成分は不安と心配だ。特捜隊のことが話せない以上君の行動を納得はしてもらえないだろうが、黙っているのは本意ではないとだけは伝えてこい」
「そう、しよう」
「君の妻にも忘れるなよ」
 エマは、と反論しかけ、クリスは口を噤む。
 彼女が酷く落ち込んだのはクリスティンの死後しばらくのことだけだ。今は以前よりも自立している様子さえあり、それを頼もしく思っていた。だが、実際にそれが全てだったのだろうか。


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