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 普段行動を共にしないアントニーでさえあれこれと気に揉んでいるのだ。エマもまた笑顔の裏で我慢を重ねている可能性が高い。
(莫迦だ。人の感情の、表面しか見られないなんて)
 思い返せば彼女と接するとき、クリスが一番気を遣っていたのは「以下にクリストファーらしく振る舞えているか」だった。何をするにもそこが基本で、つまりは自分自身のことで精一杯の状態だったのである。気遣っていてくれる相手の奥底など、それでどうして知れようか。
 今更ながらに気付かされ、クリスは自嘲を浮かべた。
「妻にもきちんと話す。出来る限りの範囲だが」
「それでいい」
 頷き、レスターは励ますようにクリスの肩を軽く叩いた。
「では、ここまでだ」
「ああ。いろいろとありがとう」
 様々な意味の感謝を込めて返せば、レスターは微笑んだようだった。柔らかく、力強い。
 思わず見惚れかけ、クリスは内心で大きく頭を横に振った。そうして表面上は何事もなかったように別れの言葉を述べる。
「それじゃあ」
「ああ、またな」
 去っていく背筋の伸びた背中は揺るぎなく、地に足の付いた力強さがある。そんな彼に抱くのは羨ましさと、どうにも形容しがたい複雑な感情だ。
(そんなに年は離れてないのに、随分助けられてる気がする)
 或いは、自分の方が頼りないだけか。
(私も、しっかりしないと――)
 思い、一度強く頬を叩き、そうしてクリスはT字路を逆の方向へと向かった。

 *

「ご指定のハウエルですが、現在外出しております」
 法務省の窓口で予想通りと言えばそれまでの展開に遭遇したクリスは、安堵と落胆と両方の色を帯びたため息を吐いた。 
「伝言承りますが?」
「ああ、頼む」
「まずはお名前をもう一度お願いします」
「クリストファー・レイだ。軍部の……」
「ええと、クリストファー……。あら」
 定められた用紙に記入を始め、事務職員はそこで手を止めた。何度か瞬き、次いで引き出しの中に手を伸ばす。
「何か?」
「ええ。ハウエルの方から伝言を預かっております」
「伝言?」
「はい。こちらになっております」
 差し出されたのは封もされていない折りたたまれた紙だ。特に機密でもない見られても困らないものということだろうが、内容までそうとは限らない。何気ない誰に見せても問題のない手紙と見せかけて暗号が仕込まれている、などといった想像は如何にも容易だった。
(しばらく別荘地へ休息に行く、か)
 緊急時の連絡先にガードナーが指定されているところを見ると、ヴェラも彼に同行しているのだろう。しかし、案の定と言うべきか。単なる不在の連絡のように書かれた文章には微妙な揶揄が含まれている。
 別荘地とは則ち、クリスがクリストファーの幼なじみと遭遇したあの場所を示しているに他ならない。宿の者はきちんと役所へと届け出たようだ。ハウエルの行動は些か速すぎるとも言えるが、もともとクリスにブラム・メイヤーの件を依頼したのは彼であり、レスター同行の件も報告済みのことである。検問を通る度につけられる記録から、ある程度クリスの動きを把握してたとしてもおかしくはない。
 抜け目のない男だと思いつつ紙を懐にしまい、クリスは事務職員に礼を言って法務省本館を後にした。いろいろあった結果、法務省関連施設から軍部までの抜け道を知ることとなった彼ではあるが、敢えて使う気にはなれない。
(そろそろ、会議も終わるかな)
 乾いた風の吹く道も軍部に近づくにつれ、野太い声が大きくなってゆく。各部隊のミーティングを終え、軍事演習組が訓練場へと出てきた証拠だろう。
 その予想は違わず、一斉に移動の始まった軍部関連施設の廊下は、忙しなく行き交う体格のいい男達で埋め尽くされていた。
「げ……」
 軍部は実際には、認識の偏った女性達の妄想とは真逆の世界である。余計な物を全て削ぎ落とされた理想的な肉体の持ち主はごく一部で、殆どは「筋肉もあればそれ以外の肉もある」ことの方が多い。つまりは今のクリスにしてみれば、彼ら肉の壁を突破してひとりの人間を捜さなければならないということになる。
(これは、一旦引き返すか?)
 正確には怯んだ、と言うべきだろう。その決断はこれまでのどんな時よりも速かった。
 心の声に即座に従い、クリスは迷いなく踵を返す。だが、その時。
「隊長……!?」
 明らかに、周囲の喧噪とは異なる「呼びかけ」がクリスの耳朶を打った。反射的に振り向き、ほぼ同時に後悔という名の動揺を体に走らせる。
 目が合ったのだ。覚えのない顔の男が、明らかにクリスを知人として認めた目を向けている。
「隊長、お久しぶりです!」
「あ……」
 やはり、とクリスは冷や汗を背中に流した。親しげな、しかしクリスには見知らぬ男が人混みをかき分け近づくにつれ、逃げ出したい気持ちが胸からせり上がる。
(どうしてこう、立て続けに)
 例の幼なじみと会ったときほどの焦りはない。だがどうやり過ごすかをすぐ思いつくかと言えばまたそれは別の話だ。
 そうこうしているうちに男はすぐ近くまで迫り、懐かしさを湛えた目でクリスを見上げて破顔した。
「いずれ復帰とは聞いておりましたが、……あ! 今日は皆揃ってますよ! 顔出して行ってください、喜びます!」
「い、いや、俺は……」
「遠慮しなくても大丈夫です! 皆、隊長の復帰を楽しみにしているんですから!」
 言いながら腕を掴み来る手はまだ細い。過酷な訓練に炙られたような色も目立つ肉刺もないところを見ると、まだ軍部に入って日が浅いのだろう。差し詰め、クリストファーが最初の上司だったといったところか。
「悪いが今日は時間がない」
「そんなこと言わずに! 突然のことでしたから、皆心配していたんですよ。ちょっとだけですから、お願いです!」
 いち小隊はおよそ十五人から二十人で構成される。中隊規模となればひとりひとりの顔を覚えるのは難しいとしても、小隊はチームカラーがはっきりと出るほどに近しい集団であることが多い。
 クリストファーは、確かに良き隊長だったのだろう。それはクリスにとっても嬉しいことであり、同時に現状を苦しくしていることでもある。


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