[]  [目次]  [



(はっきりと、突っぱねないと――)
 思うが、なかなか声にできない。だがここではっきりと拒絶しなくてはならない。
(曖昧に濁しても無駄だろうし、ここは)
 短いやりとりの間にも腕は強く引かれ、クリスの体は斜めになりつつある。
 そうした状況の中でクリスが葛藤の末に吐き出しかけた言葉はしかし、別の方向からかけられた無視できない声音によって遮られることとなった。
「そのあたりにしておきなさい」
「!」
 静かだが、人を従える強い響きがある。そんな声の持ち主は強引な誘いを制するように、手を伸ばしてクリスと掴むそれと重ねた。皮の厚い傷だらけの手は、新人には持ち得ないものである。
 気づき、新人と思しき男は即座に一歩飛び退いた。
「ガ、ガードナー隊長」
「再会に興奮するのは判るが、レイにはレイの都合がある。正式な復帰の宣言もなしに軍部をうろついているということはそれなりの用があるということ。それくらいは判らないかな?」
「あ、……は、はい!」
「いくら集団演習の日ではないとはいえ、フリーの指導官も暇じゃないよ。いずれ復帰したレイに呆れられたくなければ、自らを磨くことだね」
「はい! 申し訳ありませんでした!」
「では、行きなさい」
「はい!」
 背中に板でも入れられたかのような直立、そのままきっちり90度腰を曲げ、顔を上げるや否や男は逃げるように去っていった。あまりに唐突な展開にクリスが口を挟む間もない。
「可愛いねぇ」
 くすくすと笑うのは、人の皮を被った悪魔か。小隊長への敬愛も即座に吹き飛ばすほどの畏れを抱かれているようには見えないところが更に恐ろしい。
 可笑しそうな目を向けるガードナーに努めて無表情な顔を返し、クリスは気を取りなすべく一度咳払いをした。
「見苦しいところを、申し訳ありません」
「いやいや。君が人気者なのは知ってるから大丈夫だよ」
「それはさておき、隊長。丁度お訪ねしようと思っていたところでした。時間はありますでしょうか」
「照れなくったっていいよ」
「繰り返しますが、真面目な話をする時間はありますでしょうか」
「……少しは物事を楽しむ余裕も持った方がいいよ」
 眉を下げ、次いでガードナーはクリスを通路の端に誘った。
「でもまぁいい。僕も丁度探していたところだったんだ。エルウッドからは戻ってきたことは聞いてたから」
「レスターが?」
「そう。コリンズが何やら絡んできたみたいだね」
 ぎよっとしてクリスが目を見開けば、ガードナーは人の悪い表情のまま唇に自らの人差し指を当てた。
「エルウッドに聞いたわけじゃないよ。なにぶん目立ってたらしいね。コリンズの上司からエルウッドの上司に謝罪があったところに僕が割り込んだだけさ」
「そう、ですか。往来でしたから……申し訳ありません」
「まぁ、僕は君たちの事情を知っているからね。全員悪気がないのは判ってる。ただ北方戦争の話まで持ち出したのはさすがにまずかったな」
 再び、否、過去に何度も出かけては曖昧なまま詳細を知らずにいた事象に、クリスは思わずガードナーの袖を引いてしまった。
 一拍置いて、不思議そうなガードナーがクリスを促すように頚を傾ける。
「その、北方戦争のことですが」
「うん?」
「恥ずかしながら、自分は詳細を知りません。触りで良いので教えてもらえませんか?」
 むろん、歴史的な事実は知っている。
 西方歴756年にイエーツと北のベルフェルとの間に起きた二ヶ月間の戦争だ。当時クリスティンは誕生日を間近に控えた15歳。クリストファーは既に軍部に入っていたがまだ入隊後日が浅いこともあり後方待機をしていた。
 戦争自体の結果はイエーツの惨敗。膠着状態後あっけなく前線が崩壊したことにより戦線が保てなくなったことが直接の原因として知られているが、実際の所はそもそも戦争をけしかけたこと自体が無謀だったのだろう。この戦争が切っ掛けで国力が低下していたことが、五年前の事件に幸いしたとも言われている。
 クリスの持っている知識はむしろ平均よりも詳細であるとすら言えるが、アントニーが揶揄していたのはその範疇にはない内部のもめ事のことだろう。八年前と言えばレスターは18歳だ。いろいろと合わせて考えるに初陣かそれに近い状況だったことだけは判るが、それ以上のことは何一つ想像が付かない。
 ややあって、ガードナーはゆっくりと口を開いた。
「……エルウッドには不名誉な話だ」
「口外はしません。差し支えない範囲で結構です」
 興味本位というよりは自制の問題だ。不用意な発言をしないために他人の恥部を知っておかなければならないこともある。
 重ねて伝えれば、ガードナーは物憂げな息を吐いたようだった。
「噂好きなら知っている範囲で、だ」
「はい」
 クリスは硬い表情で首肯する。それを認め、ガードナーは彼に歩くようにと促した。
 人の行き交うこの時間帯では、立ち止まって話しているだけでも充分に目立つ。聞かれて困るような範囲のことは口にしないだろうが、それでも人目を憚る内容だ。歩きながらの雑談、そういった自然な状況の方が望ましい。
 どこへ、とは聞かず、横に並び歩を進めれば、しばらくしてガードナーは潜めた声で話し出した。
「北方戦争の敗因は前線の保持が出来なかった事が挙げられる。それは知っているな?」
「はい」
「問題はその前線だ。戦争の半ばでもかなりの打撃は受けていたようだが、最終的に前線に投入された一個大隊は全滅した。ひとりを除いて」
「まさか」
「そのひとりがエルウッドだ。彼は戦争開始早々に捕らえられ、仲間の状況を知らぬままに脱走をした。それも大層重要な情報を持って。だが、戻った時期が悪すぎた」
 若干皮肉気な口調なのは、ガードナーも関わりのあったことなのだろうか。さすがにそう口を挟むわけにもいかず、頷いてクリスは先の言葉を待った。
「当時はこれは敵に敢えて逃がされたのだとされていたが、いろいろあって本当に自力で逃げたのだと判っている。だがその当時の誤解は入手した情報の分析にも影響を与えてしまった。則ち、これは罠だと。そうして間違った解釈を元に行動を起こした。結果が前線部隊の全滅だ。突然の報せに後方の部隊は統制が取れないまま崩れ、そこで戦争は終わった」
「レスターは……」
「そこからは個人の事情だ」
 これ以上は話せないということなのだろう。予測をつけるとすれば幾つか考えられるが、脱走から戻った時点で既に劣悪な状況だったことから、おそらくは不審のレッテルを貼られて後方へ下げられ投獄されていたといったところか。


[]  [目次]  [