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 答えはむろん、否だ。ダグラスとは別に、階下で部下が控えているのだろう。
 クリスの表情からそれらを正確に読み取り、軍務長官はにやりと笑った。
「昔の仲間の行方など、そうそう報せて良いものでもないからな」
「それだけではないでしょう」
 クリスは眼を細めて吐き捨てるように言う。短いやり取りながら、軍務長官の言わんとしていることはおおよそ察していた。だが幾つかの理由からクリスは、それを素直に認められないでいる。
 軍務長官は一度黙ったままのダグラスを見た後、話を戻すように姿勢を正した。
「実際の所『ニール・ベイツ』って男をはっきりと見たことがあり、コイツだと指摘できる奴はひとりもいない」
「……つまり、架空の人物であると?」
 正直なところ、これはクリスの考えの範囲外のことである。彼は「今の事件には」関わっていないのだと考えていただけで、そもそも「存在しない」人物だとは思っていなかったのだ。
 突飛だと思い、次にそれが何らおかしな事でないとも気付く。だが如何にも認め難く、クリスは苦し紛れに声を絞り出した。
「……亡くなった外国人の老人もそう言っていたのですか?」
「そこまで近づく能力はない。おまけに周囲は暗かっただろう。奴が見て知ったのは襲撃は、馬車の事件の際に見た男を含むごく少数の手によるものだったこと、何故か仲間内で揉めた挙げ句にひとりが先に出てきたこと、そいつは後で巡回兵に捕まったこと、窓の明かり越しにオルブライトとセスらしき人影が襲われた様子が見えたこと。それだけだ。しばらくして警邏を呼ぶ笛の音が響いて逃げたと言っていた」
 最後の部分はアランから聞いた通りである。
「この中で現在生きているのは襲撃した数人とオルブライト、ハウエルのみだ。雇っていたあの男と捕まった挙げ句に収容所で殺された男は、この時知ってはいけないことを知った可能性があるために殺されたと俺は睨んでいる」
「ですがやはりそれだけで架空の人物とは……。ふたりの長官を襲った犯人達が敢えて現場にいない人物の名前を出し、捜査を混乱させるためにそう口にしていたのかもしれません」
「それで、わざとそうさせるためにオルブライトを生かしておいたと? セスが生き残ったのは予想外で?」
「そうとも考えられるということです」
「捜査を混乱させるなら、ふたりを殺した方が早い。ニール・ベイツなんていう犯人を仕立てあげる必要性はなかったはずだ」
 さすがに、軍務長官の言うことは鋭い。様々な情報が重なって「ニール・ベイツ」という男を追ってはいるが、人身売買組織が背後にある以上彼で終わりだとは誰も思っていないのだ。単なるとっかかり、或いは襲撃の主犯。だが、「襲撃の主犯不明」でも組織にとっては実は全く問題はない。
「ですが、財務長官が助けを呼んだことは確かです。それで逃げざるを得なかったのでは?」
「慌てて逃げる、ね。お前が見た『奴』はそんなに甘い奴に見えたか?」
 問いに、クリスは返答を詰まらせた。
「オルブライトは笛を鳴らしたんだろ? それにしたって数秒後に救援が来るわけじゃない。反対に気絶したセスとオルブライト、ふたりを殺すなんてそっから十秒もかからない。逃げるのはそれからでも充分なはずだ」
「……」
「何のために密談場所を襲撃したのか。それは実は、ふたりとも生き残った時点で全くよくわからないものとなってしまってる。護衛が食い止めている間に逃げられた、或いは救援が来たというのなら判るが、実際には護衛は全滅、救援時には倒れた人間以外誰もいなかった」
「……」
「法務省捜査官を殺害し、無くなった”物証”を探す奴らのことだ。密かにそれを手に入れたための密談と考えて襲撃した可能性はある。だがそれにしても、奴らにとって生かしておく利点のないふたりを殺さずに去るというのは解せん」
 何のための密談だったのか。ハウエル法務長官が表舞台に出てこない以上、オルブライト財務長官が「公表できないこと」として口を噤めばそれまでということになってしまう。
「怪しいなんて証拠は実はどこにもない。だがオルブライトには信用しきれないところがある」
 言い切った軍務長官に反論する言葉を持たず、クリスは小さく項垂れた。
「そしてもうひとつ。お前はまだニール・ベイツが実在する人物だと思いたがっているようだが――」
 クリスの方へテーブル越しに顔を寄せ、追い打ちを掛けるように軍務長官は低く囁いた。
「ゼナス・スコットはサムエル地方の領主になる前何の職に就いていたか知っているか?」
「……知りません」
「戸籍部の長だ」
 はっと、クリスは目の前の顔を凝視した。
「存在しない者を作るには最適な部署だと思わんか?」

 *

 酒を飲み居座り始めた軍務長官を副官が引き摺って連れて帰ったのを機に、クリスとダグラスもモイラの室を辞することとなった。時を同じくして店の主人に呼び出されたモイラとの別れも早々に、来たときと同じように目深に帽子を被った姿で店を後にする。
 どれくらい話し込んでいたのか。陽は既に傾きを強くし、冬の気配を帯びた風が上着の裾を弄ぶ。日中の日差しは未だ温もりを帯びて柔らかいが、朝晩の冷え込みは日に日に強くなっている。前方に伸びる影を見ながらクリスは、月日の速さを感じて身を震わせた。
「寒くなったねぇ」
「そうだな」
「はじめてここに来たときは暑かったのにね。今年は冷えるのが少し早いや」
 あの頃はまだ8月の末で、夏真っ盛りだった。酷く汗をかきながら同じ道を歩いたことを思い出す。
「ダグラス」
「なに?」
「モイラ、いや、ダーラ・リーヴィスにはニール・ベイツのことは知らせないんだな」
「知らせないねぇ」
 皮肉を含んだ笑みを浮かべ、ダグラスはクリスを真っ向から見返した。
「僕たちは天の使いでも救済者でもないよ。組織の一員だった女を慈悲で無罪放免してやるほどお人好しじゃないさ」
「つまり、一生陽の当たる場所に立てないことで、罪を償えと? 好きで組織にいたわけじゃない女に?」
「衣食住に困らない、ある意味贅沢な環境で生きながらえたと言うことは、組織に協力した事も多かったってことさ。仕方ないと言いつつ、自分の身を守るために他の女を犠牲にしたり、ね」
「それは……」
「勿論、それは他に選択肢のなかった状況で、仕方なくやったことなんだってのは判ってる。同情はする。だがそれを客観的に見れば、やはり彼女は組織の一員だったということになるんだよ」


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