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 脅されて、或いは生命の危機にさらされてのことだったとしても、事実の羅列の前には心情のはいる余地はない。
「軍務長官や他の先輩方が五年前に決定した、事実と境遇とを考慮しての措置だよ。頭の悪い人じゃないはずだから、そのあたりは彼女自身もよく理解しているんじゃないかな?」
「……そう、か。そうだな」
 思っていたとおりの答えに、クリスは自嘲した。
 聞くまでもなかったことだ。ダーラ・リーヴィスは被害者だが、完全にはそうと言い切れないほど組織に与してもいる。贖罪、そして身の安全を保障して貰うための取引のために、彼女は裏の世界で生き続けるしかないのだ。
 ニール・ベイツの影から解放されることは、確かに彼女の心を楽にさせるだろう。だがそれと同時に、軍により囚われているという思いが浮上する。自らの安全のために窮屈ながら留まるか、義務でその場に縛られるか。どちらにしても、ダーラ・リーヴィスが自由になることはないのだ。
 それならば今の境遇を受け入れざるを得ない理由がある方がまだましなのかもしれない。
「悪い、変なことを言った」
 ニール・ベイツという男が架空の人物である、その可能性を示唆されたときから生じていた煩悶を押さえ込み、クリスは緩く頭振った。
 ダグラスは笑み、一歩先を進んでちらりと視線だけを流す。
「クリスはフェミニストだもんなぁ」
「そんなんじゃない」
「じゃあ、博愛主義」
「それは絶対にない」
 むしろ利己的だとクリスは思う。己のために、いろいろなものを利用している。
「じゃあ――」
 更にダグラスが続けようとしたときだ。前を進み、ちらちらとクリスの方を振り返りながら進んでいた彼は、ふと言葉を止めて完全に体を翻した。真正面から向き合う形となり、彼の表情に首を傾げたクリスも一拍置いて振り返る。
 その目に映ったのは逆光の中走り寄ってくる女の姿だ。
「モイラ?」
「……ああ、良かった。間に合ったよ」
 立ち止まったふたりに笑みを向け、モイラは深く被ったフードから垂れた髪を後ろへ流す。
「こんな外ですまないね」
「いや、それは構わないが……」
 何かあったのかと思い、同時に自分が組織に監視されている可能性を思い出し、クリスは焦りを含んだ視線で周囲を忙しなく見回した。万が一にもモイラがダーラ・リーヴィスその人だと組織の者に知らせるわけにはいかない。
 だがその心配をモイラは別の危惧へと勘違いしたようだった。
「アタシみたいなのに外で話しかけられるのは、やっぱり気になるかい?」
「そうじゃない。そうじゃないが……」
「クリス」
 返答に詰まったクリスの背を、ダグラスがぽんと叩く。
「大丈夫だよ。モイラさんの格好ならバレないから」
 指摘に、クリスははっとしてモイラの全身を眺めやった。質素な出で立ちにフード付きマントという一見旅人のような格好であるのは彼女なりの変装なのだろう。確かにこれなら体型も曖昧で、俯けば顔もよく見えない。
 怪しいと言えばそれまでとも言うが、この界隈であれば何とか見過ごせる範囲だ。事実、顔を隠して張り込む者も多い。
「ごめんね。クリスは外へ出ても大丈夫かってことを気にしたんだと思うよ」
「悪い。その通りだ」
 ダグラスの言い訳の尻馬に乗り、クリスはモイラに軽く頭を下げる。一瞬目を見開いたモイラだが、すぐに理解したようにいつもの婀娜っぽい表情へと顔を変えた。
「そこんところは大丈夫だよ。髪型と化粧を変えりゃ女はだいぶ変わるのさ。髪も染めてるしね。ちょっとくらいならバレやしないよ」
「ああ、……なるほど」
「でもまぁ、客を追いかけるってのはあんまりよろしくないから用件だけ言うよ。実はあんたに、頼みたいことがあるのさ」
「俺に出来ることか?」
「出来るさ。これをどこかに棄ててきて欲しいだけだから」
 そう言ってモイラが掌に転がしたのは飾り気のない指輪だった。宝石ひとつ付いていない質素なそれは、どうひいき目に見ても身を飾るアイテムとしては貧弱だ。銀のようだが、混ぜものの多い粗悪品だろうとあたりをつけ、クリスは眉根を寄せた。
「これは?」
「屋敷で飼われてた証拠みたいなもんさ。特別な立場ですってことを示す、ね」
「ちょっと待ってよ。それじゃそれ、重要なものなんじゃないの!?」
 素っ頓狂な声を上げたのはダグラスである。確かに彼が慌てるのも無理はない。組織の中での身分証明ということになるからだ。
 それは、言うまでもなくモイラも判っていたことなのだろう。ダグラスを見て笑い、彼女は見せびらかすようにつまんだ指輪を横に振った。
「重要なわけないさ。そんなものだったらアンタの上司に取り上げられてる。現に一度持ってかれたけど、正真正銘、何の細工も暗号もない只の銀の輪っかだよ。しかも、鉄にコーティングしてあるだけの。あの屋敷ではこれがそう認識されてたってだけさ」
「……なんだ」
「ただね」
 言い、モイラはクリスの方へ指輪を持った手を向けた。
「同時にアタシがあの屋敷に連れ込まれたときに居た人の形見でもあるのさ。とても優しい綺麗な人で、せいぜい少し年上ってくらいだったのに混乱してた15歳のアタシにいろいろ教えてくれた。だけど一年も経たないうちにいなくなってしまったんだ」
「どこかへ連れて行かれたのか?」
「知ってるわけないだろ。けどその後アタシが彼女の代わりにあの屋敷に囚われることになって、……しばらくして急に夫が宛がわれた。だからアタシは、前の管理者がヘマやって、一緒に殺されたか何かだと思ってる」
 そう言えば、とクリスは思い出す。ニール・ベイツが屋敷の主になる前の管理者は殺されていたはずだ。ニール・ベイツが彼の後釜というのなら、ダーラ・リーヴィスの前に同じ役割を与えられていた女が巻き添えを食ったとしてもおかしくはない。或いは、一緒になって組織を裏切ろうとして粛正された可能性もある。
 怖いな、と思いつつクリスはモイラから指輪を受け取り、はじめに彼女がそうしたように掌の上で眺めやった。
「そんな形見を棄てろと?」
「あれから五年経っていろいろ環境も変わって、アンタたちが来て、――急に棄てたくなったのさ」
「……」
「パトリシアさんがいなくなってこれを預けられて、我を張って強く生きなきゃって思ってやってきたけどさ、ちょっと肩の力が抜けたって言うか、ね」
 目を細めてモイラは笑う。
「ただ言われるままに流れてきた人生だったけど、この間自分の意志であんたを呼び止めて、しばらくは本当に勝手なことして良かったのかって思ってたけど。今日になってあいつが急に連絡取ってくるし、聞けばあんたたちが来るっていうし、本当にあんたも何事もなかったみたいな顔で来るから、それでなんだか拍子抜けしちまったのさ」


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