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17.


 軍務長官の命令は迅速だった。
「馬と書類は出す、陽が完全に暮れる前に西門に集まれ」
 時間は既に日の傾いた夕方、クリスもダグラスもぼんやりとしている暇はなかった。軍部管理施設に入る直前で捕まえた長官の下を慌てて辞し、準備のためにそれぞれの家に向かう。
 次第に長くなっていく影に焦りながら自宅の扉を開けたクリスは、驚いて目を見開く使用人のカミラに、早口で事情を説明した。一週間ほども家を空け、またすぐに出かけるというクリスにいい顔はしなかったが、雇い主の様子からそれを咎めている時間がないことは悟ったようだ。
「エマは?」
「お医者様の家に」
「体の具合でも悪いのか」
「……奥様は身重でいらっしゃるとお忘れですか?」
 つまりは、経過の報告と某かのアドバイスを貰いに行ったということだろう。裕福な家では医師を定期的に呼び診察を受けているが、クリス程度の収入ではそこまでのことはできない。それでも医師そのものがいない辺境や片田舎に比べれば、大きな街の住民はずいぶんと恵まれていると言える。
「それなら、しばらくは戻ってこないか」
「もう少ししたらお戻りかと思いますが……」
「悪いが、伝言を頼む」
 戻ってくるまで待ってほしい、そんな表情のカミラへと言い切り、クリスは水場へと向かった。桶に準備して貰った湯で丁寧に体を拭い、残りを頭からかぶる。手早く水分を払えば、この体にも随分慣れてしまったものだと苦笑が漏れた。
(少し、痩せたかな)
 旅の間もレスター相手に剣を合わせ、暇を見つけては基礎訓練と、鍛えることを怠ったことはない。相変わらずの「いい体」と言えるが、それでも以前との違いは出てしまっている。
 工夫はしていてもやはり同じようにはいかない。そう改めて認識したクリスは、落ちかけた気を浮上させるために両手で強く頬を叩いた。そのまま濡れた髪を掻き上げて旅の服を羽織る。
 そのまま玄関口へと向かえば、非常食その他の旅の必需品を詰めた鞄が差し出された。
「――エマ」
「行ってらっしゃいませ」
 少しばかり息が切れている。近くまで戻ってきていたところをカミラに急かされたのだろう。
「エマ、俺は」
「あなた」
 どう言おう、何を言おう、しかし何か言わなければ。そう、家に戻ったときとは別の焦りから口を開いたクリスを、当のエマがやんわりと止める。
 まだ目立たない腹部を一度撫でた彼女は、クリスティンと友人であったころと同じ優しい笑みを浮かべた。
「お急ぎなのでしょう? さぁ、行ってらっしゃいませ」
「――」
「私のことはお気遣いなく。約束したじゃありませんか。だから、大丈夫です」
 約束、とクリスは口の中で小さく繰り返した。内容など知るわけもなく、どう返せばいいのかも当然判らない。
 出来ることと言えば誤魔化すか曖昧に濁すか、知った振りをすることだが――
(駄目だ、クリス。ちゃんと彼女を見るんだ)
 取り繕うとした思考に待ったを掛ける。レスターとの会話で気付いたはずだ。自分のことばかりではなく、相手のことも見るべきだと。
(エミーは)
 にこり、と笑ってはいる。だが確かにそういう目で見た彼女の手は小刻みに震えていた。いろいろと聞きたいという気持ちを殺し、なんでもないという意志を総動員しての笑顔。そう、見える。
(これは、アントニーに殴られても仕方ないな)
 気付かれないように緩く長く息を吐き、クリスは低い位置にあるエマの肩に手を置いた。
「エマ。今は時間がないが、帰ったら話を聞いてくれるか?」
「あなた?」
「話せることは話す。それが今でないことは済まないと思うが、あと少しだけ待っていてくれ」
 言い、呆然としたエマから荷物を受け取る。
 そうしてクリスは、彼女の滑らかな頬に顔を寄せた。出来るのは親愛の表現までだ。それにしても躊躇いはある。だが気持ちを表すには必要なことだった。
「行ってくる」
 頬に口づけ、身を固くしたエマを抱きしめ、クリスはそのまま玄関の戸に手を掛けた。勢い開けば影の薄い街角。空にはいつの間にか薄い雲が流れ落ちていく陽を遮り、辺りを灰色の世界に変えていた。
「あなた!」
 一歩踏み出したところでかけられた声に、振り返る。
「……気をつけてくださいね」
「ああ」
 僅かに顔を赤くした妻に微笑み、クリスは家を後にした。

 *

 灯りなしでもどうにか人が識別できる、そんなギリギリの時間に門に到着したクリスは、先に待ちかまえていた人物を見て首を傾げた。
「アラン?」
「遅いよ」
 何故ここに、と表情が語っていたのだろう。やや乱暴な口調でアランが説明したところによると、どうやら軍務長官からバジル・キーツ宛てにダグラス、クリスの二名が王都不在になる報告が届き、それがアランにも伝わったとのことだ。
 ヴェラはもとより不在、レスターはさすがに時間が取れなかったのだろう。特捜隊に抜擢されながら、全員で行動したのは一度目にサムエル地方に向かった時だけだったことを思い出し、クリスは小さく苦笑した。
「しかし、アランは準備が早いな」
 一番早く行動したクリスでさえギリギリだったのだ。アランに情報が届くまでのタイムラグを思えば驚異的な速さだと言えよう。
 感心して伝えれば、アランは僅かに耳を紅くしたようだった。
「オルブライト様に何の急用があるか判らないから、すぐに出かける準備くらいは当然してるに決まってるだろ」
「なるほど」
「でもさ、僕が言うのもなんだけどさ、なにもクリスが行くことないじゃない?」
 これにはクリスは何度か瞬くこととなった。思いつき、言いだしたのは彼自身だ。発起人が自分で行かずしてどうするというのだろう。


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