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 だが、言葉はそこで止まる。
「……!」
 気付いたのは、三人ほぼ同時だった。
 低木の間から馬影が見え隠れしている。崩れた屋敷を後ろに周囲を素早く見渡してみれば、それはゆうに十を超える数と知れた。見えない範囲や見落としを考えれば、楽観視は到底出来そうにない状況である。
「大丈夫だよ、まだばらけてる」
 厳しい顔つきながら、ダグラスは一番冷静だった。寄ってくる者達による包囲網がまだ完成には遠いことを瞬時に判断し、クリスとアランへ目配せを送る。勿論、その意味を把握できないふたりではない。
 近くに待機させてあった馬の元へ足早に寄り、低木の連なる庭から誘導しつつ馬上の人となる。素早く、だが慎重で的確な動きを必要とする急場にあって、それらのことをほぼ時間差なくやってのけたのは三人それぞれの胆力の賜だろう。
 同時に、そうした大きな動きは相手側にも急展開を伝えることとなった。クリスたちの馬が駆け出すや否や馬首を返し、それまでの息を潜めたような動きをかなぐり捨てる。
 どちらに逃げる、という選択肢は実際には存在しないも同然だ。荒れ果てた屋敷の周囲に、馬を全速力で駆れるほどの道はほぼひとつしか存在しないのだ。むろんその場にいる全員にとってそれは同様のことで、つまりクリスたちは強引に活路を開くしかない状況にある。
(前には二人か)
 少なくとも、このふたりを倒さない限り逃げ道すら得られない。
 クリスが汗の滲む手で剣を抜くその前で、先に駆けたアランが馬上から矢を放つ。少なくともクリスには難しい行為を危なげなくこなした彼の矢は、殆ど直線に近い緩い弧を描いて飛び、右から迫って来ていた者を正確に貫いた。
 見事と思う間もなく、二本目、三本目と殺意を纏った線が宙を走る。それがいずれも命中したことに相手は怖じ気づいたのだろう。三人目の仲間が倒れるや手綱を引き、追うクリスたちとの間に距離を取る。
 だが、安堵したのはそのほんの僅かな間だけだった。短く息を吐いたその直後、ヒュ、と短い音と共に、クリスの前を矢が掠めていく。
 重い音を立てて地面に突き刺さったそれを確認する間もなく、風切音はクリスの耳を経て全身に粟立つ感覚を覚えさせた。
(どこだ!?)
 さすがに屋敷からは離れている。周囲にあるものと言えば主には背の高い雑草、それに低木、あとは屋敷よりも崩壊の進んだ建物の名残がある程度だ。身を隠せるものはほとんど無い。じっと見回す余裕さえあれば、発見はさほど難しくはないはずである。――問題は、その時間がないということか。
「クリス、後ろ!」
 馬蹄の響き。後方から迫る集団がある。注意を受けて手綱を繰り、クリスは急転回させて剣を振るった。浅く当たった剣先が相手の槍の軌道を逸らし、その間に放たれた矢がふたりの間をすり抜ける。
 正に間一髪。だが幸運という名の偶然はそこまでだった。
 なんとか体勢を立て直し、ダグラスとアランの後を追うべくしたクリスの視線が敵から離れた直後、
「!」
 突如吹き荒れた風に煽られ、クリスは手綱を持っていた手を滑らせた。
 同時に、ドン、と鈍く短い音。頸を射られた馬がそのまま勢いに負けて倒れ込む。
 落馬と気付く余裕もなく、しかし反射そのもので受け身が取れたことは「クリストファー」に感謝すべきだろう。地面に叩きつけられる感覚を脳が理解すると共に飛び起き、降ってきた槍の穂先を剣の柄で弾き返す。
 わずか十数センチ向こうで絶命している馬に目を細め、クリスは運の良さに改めて息を吐いた。そうして屈んだ姿勢から地面を蹴って跳躍。近くに転がっていた剣を拾いつつ、狙撃された地点から距離を取る。
 第二撃、と続かなかったのは、おそらくは居場所のばれた狙撃手がアランの矢に斃れた為だろう。だが、敵はそれだけではない。同じように馬を失った男達が数人、クリスの周囲を半円形に囲んでいる。全員が何らかの怪我を負っているが、多勢に無勢と言った状況だ。
(――いや、馬に乗ってるのがダグラスとアランを追っていってくれたのは助かったが)
 相手方は、三人共を仕留める気でいると分析し、クリスは気付かれぬように安堵の籠もった息を吐いた。戦力を削ぐという視点だったのであれば、総力で馬を失ったクリスに向かう方が的確で早いのだ。そういう状況にならなかったことを、相手方の計画に感謝すべきか。
 既に鈍器に近くなった剣を構え、クリスはにじり寄る敵全てに目を走らせた。威嚇ということもあるが、主には敵の表情や態度を観察するためである。怜悧な殺意を孕んでいるか、別の感情を多く伴っているか、それだけでも対応は変わるのだ。
(にやにや嗤っているが、油断はしてない。ただ、……死ぬ気はないようだな)
 つまり、殺す気ではいるが、殺される気はないということだ。余裕あってのことだが、真正面からぶつかり合い功名を立てるか怪我を負うかのやりとりをする気はなさそうである。楽に無傷のまま相手を嬲り殺す、それを望んでいるような目つきだった。
 それならば、とクリスはわざと顔を顰めた。体を打ち付けたときの傷が痛むような、それを耐えるような表情を浮かべつつ一歩二歩と後退を重ねる。そうして更に包囲の輪が縮まったと感じた直後、今度は一転、目を見開いて驚きの表情へと変えた。
 それを見て、目の前の男たちが瞳を揺らす。
(――よし!)
 単純な騙し手だが、それだけに状況によっては引っかかる者も多い。心の中の本音を覆い隠し驚きから笑みへと表情を変えれば、男たちはまたも揃って反応を示した。
 すなわち、クリスが表情を変えたもとと考える方向に意識を逸らしたのだ。
 むろん、意図して相手を誘導したクリスがその隙を逃すはずもない。
「はっ!」
 短い気合いと共に最も近くにいた男に体当たりを喰らわせる。もともと、剣での間合いをして距離を測っていたのだろう。男には思わぬ攻撃だったらしく、彼はあっさりとその場に倒れ込んだ。
 ひとり、と喉の奥でひとりごち、包囲の崩れた場所から抜け出したクリスは、男たちが体の向きを変える前に霧雨に湿った砂を剣の鞘で強く深く抉る。そうして更に、同じ箇所を強く掻くように蹴り上げた。
「……っ!」
「ぅわ……っ」
 クリスの落馬の原因となった風ほどではなかっただろう。だが断続的に吹く、その風上から運ばれた砂は男達を襲うに充分な勢いだった。湿った土は近くの者に、枯れて積もっていた葉や軽い砂は更に遠くに。中でも特に、泥を含んだ水が男達を怯ませた。
 咄嗟に体の向きを変え、或いは腕で目や口を覆った男達に、クリスの剣が走る。殺す必要はない。追ってこられなくなればいいのだ。そう考え、足下を狙う。機動力を高めるためか、相手も防具らしい防具もつけぬ軽装備であることも幸いだった。
「――っ!」
 実際のところは、隙も与えぬ連続攻撃というほどのものではなかっただろう。男たちの内ひとりでも、クリスに一点集中するほどの殺意を持っていれば結果は逆に終えたに違いない。言ってみればそれは、自分ひとりがなんとかしなければならないという集中力の差だ。
 だがこの場は、状況とそれぞれの思惑を材料に的確な判断へと導けたクリスに軍配が上がった。


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