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「――クリス! こっちだ!」
 低い姿勢から剣を一閃、殆ど力任せに男たちの脛に叩き込んだクリスは、最初に体当たりしたひとりの膝を蹴り上げて顔を上げた。見れば、人を乗せていない馬を伴ったダグラスが、周囲を大きく回り込むように駆けている。クリスが落馬してから手間取っている間に、敵から馬を奪って隙を見ていたのだろう。
 腹の立つほどに優秀だ。出来すぎていて言葉もない。
(こっちは、一か八かだったのにな!)
 半ば呆れながら剣を鞘に収め、追いすがる敵を足蹴にしながら、クリスは馬に乗りやすい開けた場所へと移動した。
「残りの奴らは!?」
「一部逃げていったけど、おおかた仕留めたよ」
 荒い息を整えつつ、一旦足を止めた馬の横に回り込み素早く騎乗する。あれこれと確認している暇はない。戻ってきたアランも一度安堵の息を吐いただけで表情は厳しいままだ。
 助かったと礼を言い、それにダグラスが頷いたのを認めてからは再びひたすらに馬を駆る。逃げた敵の思惑はどうであれ、今はこちらも逃げる以外の選択肢はない。前方の敵を全て排除し終えた後、彼らを尻目に屋敷の敷地内とその周囲の荒れ果てた場所を抜け、三人は道と呼べる均された通りへと無事脱出を遂げた。
「どうする?」
 広い場所へ出たと言っても、分かたれるほどの行き先はない。元来た道へ戻るか逆へ行くかの二択だ。
「左へ行こう」
「アラン?」
「僕が案内する。それとも信用できない?」
 いや、とクリスは首を横に振る。
「なら、付いてきて。少なくとも、向かう場所ならひと息つけるはずだから」

 *

 アランの先導で馬を走らせることしばし。断続的に降る霧雨に全身を濡らしながら三人が廃屋点在する集落跡へとたどり着いた時には、既に昼を過ぎ夕方へと向かっていた。もう少し正確な時間をと思い見上げてはみるが、厚く低い雲の立ちこめる空からははっきりと窺うことが出来ずにいる。
 水溜まりの点在する凸凹道を避け、雨に首を垂れた草の上を進み、奥まった場所にある廃屋のひとつの前で、三人は数時間ぶりに馬を下りることとなった。汗と雨に濡れたそれぞれの馬の体を拭き、屋根のある場所に繋ぎ、屋根のある場所にようやく辿り着いたときには半ば倒れ込むような有様である。
 何度も深呼吸を繰り返しながら、クリスは比較的頑丈な壁に凭れてだらしなく両足を投げ出した。
「……ここは、安全なのか?」
 疲労に言葉を選ぶ余裕もなかった彼の口から出た問いに、残る二人が反射的に顔を上げた。瞬間的に場を支配した沈黙に、クリスは自分の失言に気付きはっと息を呑む。むろん、絶対的な安全保障やその責任をアランに押しつけるつもりで問うたことではない。休んでも大丈夫だという気休めが欲しかった程度のものだ。
 幸い、それはアランにもすぐに判ったのだろう。クリスが謝罪を口にする前に、彼は一瞬迷い、そして小さく苦笑してから入り口の方へと目を向けた。
「少なくとも、誰も彼もが知ってるような道でも廃村でもないのは確かだね」
「そうか」
「あの屋敷から逃げる道は他にもあるけど、王都へ戻る時に使うような道は避けたつもりさ。僕たちは普段王都にいるし現にそこから来た。だから敵も安全圏に戻るなら王都を選ぶはずだという考えがまず先に出るはずだけど」
「四方八方、くまなく手が回ったのなら安全とは言い切れない?」
「そう。だけど、敵もそう人手がいるようには見えなかったから、たぶんこの方面に人を遣る余裕はないと思う」
 加えてアランが口にした説明は、クリスを充分に納得させるものだった。間違っても王都へ戻る道ではなく、しかし全く反対方面かと言えばそこまで離れてはおらず、つまりはどこかへ逃げるという思考を除去した袋小路のような場所だ。三人がどこかへ救援を呼ぶ、或いは逃げ込むと考えている間はけして、逃亡先候補として挙げられることはないだろう。
「なるほど、よく考えている」
「そんなんじゃないさ。ただ、知ってただけさ」
「ふぅん? で、ここがアランの出身地ってわけ?」
 穏やかな方面へ向きかけた話題に、ダグラスが唐突に横やりを入れる。
 そのさらりと落とされた爆弾に、クリスはぎよっとしてふたりを見比べた。半笑いのダグラスに湿った目つきのアラン、共に冷えた空気を纏っている。
 ややあって、アランの方が先に口を開いた。
「まさか。そこまで感傷的じゃないさ」
「へぇ? じゃあここは何?」
「単なる遺棄された集落さ。あんたの好奇心を満たす返事を返してあげるなら、僕は確かにこのあたりの出身ではあるけどね」
「残念、その程度のことは知ってるよ」
 皮肉に皮肉を返したダグラスは、アランが口を噤むと同時にこの話題に興味を無くしたようだった。崩れかけの家の中をぐるりと見回した後一度肩を竦めると、休むとだけ短く宣言し隣の間に姿を消した。
 困ったのは、話に加わることもなく内心で右往左往していたクリスである。残されたアランが肩を震わせている様に、掛ける言葉が見つからない。その何が問題といって、いたたまれない以上に好奇心が膨れあがっているからだ。
(アランがサムエル地方の出身だったなんて)
 財務省でそれと知られた男、というほどではないが、出身不明のまま財務長官の秘書の末席に突然拝命された謎の多い人物ではあるのだ。その待遇をして秘蔵っ子と表現する者もいれば、長官の愛童扱いをする者まで様々である。共通しているのはクリスのみならず、彼の経歴を探ろうとした者の殆どが五年以上前を遡ることができないといったことか。
 ダグラスがそれを知っていたことはさほど驚く要素にはない。どちらかと言えばクリスという明らかに何も知らなさそうな人物がいるにも関わらず、あっさりと過去の一端を晒してみせたところの方が意外だったというべきだろう。
「なにさ、あんたも気になるのかい?」
 ダグラスの去った方向を見つめていたアランがクリスに近づきながら口の端を曲げて問う。
「あいつと違って、初耳だったんだろ?」
「それはそうだが、気にしては……」
「そんな何か言いたげな顔して、嘘が下手だね」
 皮肉な表情はそのままに、幾分雰囲気を和らげたアランは小さく苦笑する。さすがに否定しきれずに、クリスは傍に座り込んだ彼から目を逸らして俯いた。
「悪い。だが、俺の前で秘密であることを言って良かったのか?」
「秘密ってほどじゃないさ。僕はこの地方の出身で、人身売買組織のことをあれこれ調べてた男の息子で、住んでた集落ごと組織に潰さたってだけの話さ」
「……それは」
「姉さんが囮になって捕まってる間に父親の残した資料を持って逃げて、ようやく信用の出来る人に渡せて、その功績で引き立てて貰ってる、それだけのこと」
「……」
「んな顔しないでくれない? 別に悟ったふりするわけじゃないけど、僕みたいなのは結構多いんだからさ。たまたま無事に逃げ切れたからここにいるだけだし」


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