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(私にそれが出来たとしても、どうしようもないんだよなぁ)
 今にしても、仲間に助けられ導かれながら敵に気付かれずにやり過ごせることを願っている程度の人間だ。思い、クリスは横のアランへと視線を向けた。
 見張り番をしていろと言った割に、彼は未だに眠ってなどいない。ぼんやりと外を見て体の力を抜いているのは確かだが、それだけのようだった。表情はどこか硬い。
(……責任を感じてるんだろうな)
 不安なのだろう。ここへクリスとダグラスを誘導したことが正解であったと結果が出るまで、彼は気の抜けない状態にあるに違いない。自分の判断で他の誰かが窮地に立つという展開は、なかなかに精神的に堪えるものだ。全世界の状況を空から眺めたいのは、むしろ今の彼の方だろう。
 そんな彼の横で無責任にとりとめのないことを考え続けるのは失礼かと、クリスは小さくため息を吐いた。
 襲ってきた者達の行動や戦闘時の動き、人数、体格など、見ていたことはしっかりと覚えている。それを分析するとすれば、無事に逃げ延び、意見を交わし合うことが出来る安全な場所にたどり着いた後だ。
 ならば今やるべきことはと思い、クリスは濡れた上着の内側へと手を入れた。
「アラン」
「……なに?」
「何か食うか?」
「はぁ?」
 あまりに唐突だったためだろう。呆れや皮肉を削ぎ落とした百パーセントの疑問符を顔に貼り付けながら、アランがクリスの方へと体を捻る。
「いや、腹が減っては戦も出来ぬと言うだろう」
「言うけど、じゃなくて、……僕にはあんたの思考回路がさっぱり判らないんだけど?」
「単純な話だ。何かあったときに備えて、少しでも体力を付けておくべきだと思っただけだ」
「それは判るけど、なんでいきなりそんな話になるんだよ」
「あれこれ考えていたが、考えても今はどうしようもないと思ってな。どうせなら服を乾かすか寝て休むかと思ったがどちらも出来そうにない。なら、いつでも動けるようにしておくべきだと思ったまでだ」
 この数十分、一時間には満たないであろう沈黙の間に脳裏で展開されたことをかいつまんで話せば、アランは今度こそ呆れたような憐れむような目を向けた。そうして、大げさにため息を吐く。
「そりゃ、息を潜めてる必要はあるけど、あんた、案外単純だよな」
「あれこれ考えているつもりだがな」
「吹っ切れ方が極端なんだよ」
 実際にはその吹っ切れるまでがグダグダなんだがな、と内心で自嘲しつつ、クリスは手に持っていた包みを開いて中をアランへと示した。やや強引な様子に一度顔をしかめたアランだが、抵抗する必要性までは感じなかったのだろう。再度ため息を吐き出した後、諦めたような声でクリスに問うた。
「なにこれ。堅焼きのパン?」
 何故持っているのかと不思議そうなアランに曖昧な笑みを返し、クリスは数枚を彼に渡す。
(まさか役に立つとはなぁ)
 王都を出る前に馬を手配してくれた男から渡された包みの中身である。渡した金に釣り合わない安い保存食であるが、今の状況を合わせて考えるなら値千金というべきか。馬に括り付けていた袋にではなく、上着のポケットの中に突っ込んだままであったために失わずに済んだものだ。ところどころ砕けて形を無くしているが、厚い上着に守られて濡れたりなどはしていない。
 試しに小さな欠片を口に入れれば、素っ気ないながら確かな味が舌の上に広がった。
「さすがに飲まず食わずよりマシだろう?」
「……まぁね」
 ひとくち、ふたくち。文句を言いながらアランも堅焼きパンを咀嚼する。雨の音に混じり、乾いた音が砕けて消えてはまた響く。
 やがてその音が小さくなり、喉が鳴り、最後の一欠片が指先から消えた後、アランは小さく伸びをして呟いた。
「あんた、強かだよな」
「ん?」
「なんだかんだ、順応が早いってこと。どんな状況になっても強かに生き延びそうだよな」
「それは、お前もそうだろう? ただの子供が組織から逃げおおせるわけがない」
「僕は寄生虫さ。自分で生き延びてるわけじゃなくて、人を利用し続けて逃げ回ってただけ」
「それも強かさのひとつだろう?」
「違うよ。そう言われるときのニュアンスがね」
 逃げ延びるためによほど後ろ暗いことをしていたのか。そう思わせるほどにアランの声は低かった。
 今の彼に至るまでに何があったのか、何をしてきたのか、彼が自主的に話さない限りは聞くつもりもない。だが、とクリスは彼の頭を軽く小突いた。
「では聞くが。過去に戻ってやり直せるとしたら、お前は逆らわずに死んでやるつもりか? 組織に追われ、殺され、父親の残した資料も奪われて、何も残さずに」
「――そういう言い方は、卑怯だ」
「目的のためには何をしてもいいとは言わん。だがお前がそれを自覚しながらそれでも生きる道を選んだのなら、――思いっきり、長生きしろ。そうして、こうやって俺たちをここに導いてくれたように、多くの人の助けになるといい」
 僅かに目を伏せ、クリスは口元だけに笑みを刷く。長生きか、と喉の奥で呟けば寂しさが胸を通り過ぎた。
 どうやったとしても、彼には望むことの出来ない未来だ。いっそ、生きてこの先があることの大切さを諭したい。
(今の、私の状況を言えればの話だが)
 この先も何かが出来る、その大切さを伝えたくて言葉に出来ないもどかしさ。そんな思いが言葉の端々に表れていたのだろうか。
 クリスを見つめ数秒間口を引き結んでいたアランが、不意に眉根を寄せて表情を崩した。
「なに、凄く他人事みたいに言ってんだよ」
「――」
 瞬間、鼓動が高鳴る。
(図星だ)
 大人が子供に言い聞かせるように、老人が若者に説くように、過ぎ去って取り戻しようのないことの重さを諦めと後悔を持って語る、そんな声音だったのだろう。語る言葉の現在地に語っている本人はいないのだ。
「誰かの力になるってんなら、お人好しのあんたの方が得意だろ。それとも、軍人でいつ戦争に行くか判らないからって言いたいわけ?」
「いや、そこまでは考えてなかったが」
「なら、――出来なかったことを他人に説教するみたいな声出すなよ」
「そう、……だな」
 曖昧に頷き、クリスはアランから顔を背け、口元を手で覆った。
 アランに悪気があるわけではない。むしろ、話を今の流れに持っていったのは自分の方だ。そうして彼は、至極真っ当なことを言っている。


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