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 だが、今のクリスにはその言葉が少し辛い。
 後悔。そうだ、全て後悔なのだ。クリスは不可思議な状況をしてこうしてここにいるが、クリスティンの道は既に閉ざされてしまった。クリスティンとしてはもう、何をすることも出来ないのだ。
 加えて言えば、クリスとして未来を描くこともまた許されることではない。
(判ってるけど、人の口から聞くと……)
 いくら覚悟を決めても、穏やかな気持ちではいられない。
「クリス?」
 俯き、半分顔を隠したままのクリスにアランが訝しげな声を掛ける。
「なに? 気分でも悪くなったのかい?」
「……いや」
 呟くように答え、す、とクリスは立ち上がった。
「忘れてた。ダグラスにもパンを渡してくる」
「はぁ? って、おい!」
 何を急に、とアランがクリスの服の裾を引く。
「そんなもん、後で渡せばいいだろ? あいつだって休んでるかも知れないんだし」
「ちょっと様子を見てくるだけだ。お前はあんまり顔を合わせたくないだろう?」
「……それは」
「お前が軍人云々の話を出すから思い出しただけだ。すぐに戻る」
 行動の辻褄を合わせるために咄嗟に出た言い訳を、やや強引だと自覚しながらも押しつける。本来なら騙されてはくれないだろうアランはしかし、ダグラスへの苦手意識からかそれ以上の追及を押し止めたようだった。
 僅かに乾き始めた髪を掻き上げ、雨漏りの酷い室を進むことしばし。口実通りに真っ直ぐダグラスを探すつもりはなく、むしろ彼とは離れるように歩いていたクリスは、ふと、廃屋の一角に不思議な光が灯っていることに気づき眉根を寄せた。
 あれは、と思いその先を急く。
 鈍く鳴る湿った床板を強く踏み、傾いだ柱を押し、雫垂れる軒を越え、雑草蔓延る隣家の窓から暗い一室に入り込んだクリスは、周囲に人の気配がないことを確認してから絞り出すような声を上げた。
「ゲッシュ」
 響いた音に反応し、視界が揺れる。
 数秒後、眼を細めたクリスの前には予想通りの男の姿があった。
「久しぶりだな」
 姿を見るのは実に二十日ぶり、クリスが毒に倒れて以来のことである。最後に見たときのゲッシュはクリスに負けず劣らず悲惨な状態だった。その後の彼の仲間、トロイとの会話を思い出すに、どうにも申し訳なさといたたまれなさがこみ上げる。
「もう大丈夫なのか?」
「まぁ、ね」
 本調子ではないということだろう。
「クリスも元気そうで良かった」
「この間も助けてくれたな。感謝してる」
「気にしないで。助かったのはクリスの咄嗟の判断も大きいんだから」
 人懐っこい笑みにクリスも頬を緩め、一瞬温かい気持ちが胸を満たす。だがそれ以上に、言わねばならないことが気を重くした。
「……あのトロイという男から聞いた」
「うん」
「すまない。私は何も知らなかったな。それに、こんな状況になって、本当なら合わせる顔もない」
「それも、気にしなくて良いよ」
「だけど」
「僕がそうなるだろうってことを可能性として充分判った上でそうしたいって思ったことだよ。それでも、強引な手段は採らずにクリスに任せようって」
「何故?」
「判らない。だけど初めてクリスを見たとき、ふたつの魂がひとつの肉体で不思議なほどに共存しているのを見たとき、引きはがすのは良くないって思ったんだ。きっとこれは――」
 穏やかに、だが強く言いかけたゲッシュは、しかしそこで突然言葉を止めた。一秒、二秒、そんな僅かな逡巡の後、口を閉じて頭振る。
「……ごめん、何の根拠もないことを言いかけた」
 意味深な間に続きを訊ねたい衝動に駆られたクリスだが、ゲッシュの表情はそれを許さなかった。聞いたところで答えてはもらえない、そうはっきりと判る様子に、クリスもまた緩く首を横に揺らす。
「それよりクリス、あんまりゆっくり喋ってる状況じゃないから用件言うね」
「う、うん。そう言えば突然どうしたんだ?」
「追っ手は違う方向に行ったよ。今はもう、クリスたちに追跡者はいない」
 さすがに、予想外の情報だったと言えよう。数度瞬きした後、クリスは疑わしいと言うよりは不可思議なものを見るような目でゲッシュを見つめた。
「そういうことは、教えても良いのか?」
「あんまり良くはないね。だけどこうとも言える。クリスがここでもたもたしてると、余計に事件の解決が遅くなる。僕は僕の都合でそれを早めるために勝手なことをしてるだけだよ」
 物は言いようだ、とクリスは苦笑する。
「それに――」
「ゲッシュ!」
 更に言いかけたゲッシュを遮ったのは、新たに現れた光の靄、否、一瞬のうちに痩せた男の姿を形取った導き人、トロイだ。
「お前、休んでいろとあれほど」
 かつてクリスに投げた言葉、声音とかけ離れた気遣わしげな口調でトロイはゲッシュの肩を叩く。困ったような表情で彼を見たゲッシュはその真剣な眼差しに頭垂れ、ため息を吐くように細い声で応えた。
「……うん。ごめん」
「無茶をするな。エネルギーを消耗する」
「うん」
「なら、ここから離れろ」
 有無を言わせない様子にゲッシュが躊躇いを見せたのは数秒だった。抵抗することもなく素直に頷いたのは、本当に彼らの基準での体調が思わしくなかったということだろう。
「それじゃあ、クリス」
「……ああ。情報、ありがとう」
 礼を述べれば、ゲッシュは微笑んだようだった。それをはっきりと確認する前に彼は光の粒となって消え、代わりにトロイが不穏な表情でクリスを見遣る。
(睨まれる理由は判る、が)
 非はクリスにあると言え、気まずさに卑屈になるにしては、トロイの見せる敵対心は極端に過ぎる。ス、と一気に心が冷えていくのを感じたのは、ごく自然なことなのだろう。口をついて出た言葉もまた、ひどく冷めたものだった。
「帰らないのか?」
「……」
「それとも、まだ生き存えている愚者に、何か言いたいことでも?」
 この男の言葉でいろいろと気付かされたことはあった。だがその経緯を思い返すに、さすがに穏やかに談笑する気は起こらない。


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