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 それは相手も同様なのだろう。あからさまに皮肉を帯びた口調に、男は片方の口端を吊り上げたようだった。
「悪いが、人目がある。何もする気がないのなら消えてくれ」
「続きがある」
「?」
「お前たちを追っていた奴らは平地ではなく隠れるように撤退していった。おそらくは街道を堂々と進んだ方が遭遇率は低くなるだろう」
「……は?」
 低い、脳裏に響くような声に、その内容に、クリスはさすがにぽかんと口を開けた。
 この男は、何が言いたいのだろう。
「街道を進め、と言った」
「それは聞こえたが、何故お前がそれを教える?」
「ゲッシュが言い忘れたと言っている」
 だから何故お前がと繰り返せば、トロイは強く眉間に皺を寄せた。不本意と額に描いたような表情が、如何にもこの男らしい。
「ゲッシュはダメージを受けてあまり力が出せないでいる。あいつに強く、頼まれたからだ」
「嫌な役割でも、ゲッシュの言うことは聞くのか」
「あいつが何故お前をこうも信じるのかは判らんが、それがあいつの願いなら。それに、今となってはついでの話だからだ」
「随分と仲間思いだな」
「我々にはもう未来も過去もない。願うことや思うことは貴重なんだ。だから、そう望むなら叶えてやりたいと思う。おかしなことか?」
 問いにクリスははっきりと首を横に振った。
 仲間の思いは尊重する。だが同時に、男自身の信念を曲げているわけではないのだろう。クリスを見る目は嶮しく、積み重なった憎しみが見て取れる。隙あらばクリストファー・レイという人間を死の方向へと向け流したい、そう思っていることは明らかだ。
 勝手だ、とクリスは思った。生死、魂の流れに沿うことを是としながら、トロイはこうして感情で動く。
「追っ手を、こちらに誘導すれば良かったんじゃないか?」
 そうすれば、クリスたちは進退を極めることとなるだろう。
「言いたくない伝言もせず、私を殺せて万々歳といったところだろう?」
「お前の他に、あのふたりも死ぬだろうがな」
「……なるほど」
 他人を巻き込む気はないといったところか。
「それなら私は、誰かと常に一緒にいれば安全というわけか」
「――お前と兄の身に起こっていることを教えてやったにも関わらず、他人を巻き込んでまで変わらずに生に執着するというのか」
 クリスが冗談だと告げる前に、見苦しい、とトロイは吐き捨てる。
「お前がその執着のもと、自分がやらねばと踏ん張ったところで、それが『お前』への賞賛になることはない。受け取るのはお前が乗っ取っている肉体の主だ。――虚しいとは思わないか?」
「思うさ」
 そんなのは、当たり前のことだ。
 低く嗤い、クリスは宙に浮く半透明の姿を見上げて眼を細めた。
「なぁ、私がもし、消滅してやるからひとつ願いを叶えてくれと言ったらどうする?」
「そんな気などないくせに」
「もしもの話だ」
 おそらく今自分は不気味な表情をしているだろう。微笑を湛えた無表情、そんな顔を思い浮かべながらクリスはトロイへと近づいた。
 一拍置いて、トロイは短く返す。
「願い次第だ」
「じゃあ、生きたいね」
「……」
「冗談だよ」
 莫迦なことを言っているとの自覚はある。だがそれでも笑みは漏れた。
 未来も過去もないのは同じなのだ。
 つい先ほどのアランとの会話を思い出し、肚の底を冷やす。クリスにもまた、先はない。こんな状況に陥った以上、誰かの未来が犠牲になるのだ。否、正確に言うなら、クリスティンかクリストファー、どちらかの。
(――ただ)
 ただクリスは加害者の側で、そういう意味でゲッシュやトロイとは確実に一線を画す。そう思った瞬間、不安定さを糧にわき起こっていたトロイへの苛立ちが沈静し、クリスは強い脱力感を覚えた。
 大概、自分も好き勝手なことを言っている。
「……悪い」
 バツも悪く、俯いてクリスは謝罪した。
「他に、用件は?」
「ない。お前が何も考えず、のうのうと生きようとしていないかを見に来ただけだ」
「そうか」
 苦笑し頷けば、トロイは強く顔をしかめたようだった。だがそのまま何も言わず、体を曖昧な光へと変えていく。一気に消えても良さそうなものだが、某か、彼らにもルールがあるのだろう。不可視への転換は意外に集中力を要するのかも知れない。
 まるで考え事をしながら歩き去っているようだ、と思いながら、クリスはふと思いついたことを口にした。
「なぁ、兄様はまだ、ちゃんと生きているか?」
 私の中で。そう言葉にしなかった部分を正確に読み取ったのだろう。去るように消えかけた光が微かに揺らぎ、躊躇うようにトロイは頷いたようだった。
「そうか。――それなら、いい」
 ならばまだ時間はある。
 不審な様子を残したまま消えたトロイの残滓を目で追いながら、クリスは両手を握りしめた。
(どうも、不安定だな)
 覚悟を決めてからもしばし、心の底が揺らぐ。一連の事件を解決するために力を注ぐという思いはぶれないながら、自分の身の上の話になると感情が強く上下する有様だ。逆に言えば動揺を誘うような事が続いているということでもあるが、それでは覚悟も言い倒れといったところだろう。
(駄目だ、しっかりしないと)
 いっそ、事件に当たる以外のことを全て放り投げられたのなら楽なのかもしれない。だが現実には妻に心配をかけ、友を怒らせ、周囲にも迷惑をかけている。生きている以上、人と人との繋がりが切れない以上、脇目もふらずというわけにはいかないのだ。
 動じない心が欲しいと思いつつクリスは踵を返す。
(それに、どう言ったものかなぁ)
 トロイから得た情報は極めて重要なことだ。だが、それを残るふたりにどう説明して説得力を持たせればいいのかが判らない。
 ゆっくりと来た道を戻りつつ、思案する。だがやはり妙案は浮き出ない。
(このまま朝まで待つのもいいけど、夜になれば更に冷えるし、明日になったら状況も変わってるかも知れないし)
 顎に手を当てつつ湿った床を鳴らすクリス。
 そうして、そういう妙なタイミングで現れるのがダグラスという男だ。


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