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「クリス」
 突然のことに喉が詰まり、悲鳴を上げることがなかったのは幸いだろう。おそろしくぎこちない動きで振り返ったクリスは、ひとり去ったときとは真逆のような機嫌の良さそうな顔を見て、僅かに口元を引き攣らせた。
 まさか、トロイとの会話を聞かれていたのではと焦りつつ、震える声でダグラスに問う。
「な、何だ?」
「何だじゃないよ。クリス、食べられるもの持ってるんだって?」
「え? ――ああ、いや、それはそうだが」
 拍子抜けとはこのことか。
「お前にも渡そうと思ってたんだが」
「うん、そう聞いて探したんだよね」
 ここへ来る前にアランのところへ寄ったのだろう。時間的に見れば、丁度すれ違いになっていたに違いない。
 仕舞っていた堅焼きパンの残りを渡せば、ほくほくといった顔でダグラスは包みを開いた。数にして少なく、大して腹の足しになるとも思えない量だが、一時の空腹を紛らわすくらいにはなるはずだ。
「お前なら、携帯食くらい持っていそうだが」
「持ってたんだけどね、逃げるために荷物を減らすときに一緒に棄てちゃったんだ。いつもの判断で水筒を残したんだけど、ここまで雨が続くならそっちを棄てた方が良かったかなぁって考えてたところ」
 悪戯っぽく笑ってはいるが、あの集団戦闘の折りには彼もそれなりに焦っていたということだろう。それでも、その中で敵から馬を奪える余裕があったのはいっそ羨ましいくらいだ。
 硬い硬いと言いながらパンを一気に胃の中に収めたダグラスは、一度律儀に礼をとったあとでクリスに真正面から向き直った。
「さて、少し休み、お腹に物を入れ、人心地ついたところで質問です」
「?」
「動くのはいつでしょう?」
 クリスは知っている。敵はこの周辺にはいない。則ち、条件の悪い場所で隠れている必要はない。
 そういった反則のような情報なしにダグラスは考えを巡らせていたのだろう。こうしてクリスの前に現れたということは則ち、彼なりの考えが纏まったということだ。
 そうでありながら先に人の意見を聞くという彼らしい行動に、クリスはわざと逸らした回答を口にした。
「いつ、というよりはどう進むかも問題じゃないのか? 一旦アランの導きで逃げられたはいいが、ここから王都へもまだ遠いぞ?」
「それはいいんだよ。考えがある」
「?」
「やだなぁ、クリス。君がいるじゃない」
「俺が?」
「君の実家は国中に手を広げる商家でしょ。どこか街までたどり着いたあとはそこに紛れ込める」
 ダグラスの言葉はクリスにとっては盲点だった。どこかへ逃げ去るときに実家を使うという手は考えていても、戻るときに利用することは思考の外だったのだ。そういう個人的な理由での意外さを除けば、至極真っ当な手段と言える。
 納得し頷き同意を示せば、ダグラスはにやりと笑ったようだった。
「さて、では初めの質問に戻るよ」
 なるほど、ここが彼の策士なところであり、機を見るに長けているといったところだろう。わざとひとつふたつ飛んだ問いを発し、それにまんまと誘導されたクリスの質問に答えるといった形で、彼は己の考えをクリスの中に忍び込ませたのだ。
 先の見えない状況で、一縷とも言える希望を見せられては動かざるを得ない。
 肩を竦め、だがその実なんの心配もないままにクリスはひとつ頷いた。
「動くのは、今だ」
 時間はけして味方になるとは限らない。
 告げれば、ダグラスは破顔した。

 *

 そしてその頃、同日同刻、廃墟から東に離れた山道に、苛立ちも顕わに馬を駆る一団があった。服装、武器防具に統一感はなく寄せ集めと判る集団ではあるが、全員がそれなりのまとまりを持って行動できているあたり、ひとりひとりの能力の高さが窺える。
「勝手極まるとはこのことだ!」
 上背のある、なかなかに美男子といえる男が、馬上で隣の人物に罵声を浴びせた。
「あなたもあなただ! 袋の口を塞ぐと言いながら、まんまと逃げられたではないですか!」
「ああ、すまん、すまん」
「すまん、ではありません! あいつらを追えと言ったのもあなたでしょう! 折角借りた手練れももう引き返してしまいましたよ!」
 数にして三、四人。付き従う面々がその通りだと言いたげに首を縦に振る。丁度それに賛同するように、枝葉の間から男の額に雫がこぼれ落ちたのは愛嬌か。
「そうは言ってもなぁ」
「だいたい、何故あなたは遅れて来たんですか。予定では、私たちより先に着くはずだったでしょう。そのせいで逃がしたも同然なんですよ!?」
「ああうん、それについてはほんっと予想外だったんだよなぁ」
 言いながら、痛い痛いと脇腹を押さえる。男が訝しげにその方を見遣れば、なるほど、衣服には乾いた血が存分にこべりついていた。これに驚き、男はそれまで連ねていた文句を飲み下す。
 その視線に気付き、怪我を負った男はしかめていた顔を崩してにやりと嗤った。
「半分は返り血だぜ?」
「それにしても、あなたが斬られるとは。いや、それ以前に、何故?」
「さてねぇ。しかしまぁ、あいつがあそこまでやるとは思わなかった俺の負けかねぇ」
「つまり、邪魔が? まさか、取り逃がしたのですか」
 あり得ない、と言った顔で男は息を呑む。
「まさか、子飼いを出しておきながら、裏で軍務長官が?」
「それこそ、まさかだねぇ。あの食わせ者が出てくるほどの状況じゃねぇからなぁ」
「では、誰が」
「さてねぇ」
 相手を知らぬ、というよりは知っていて言わぬといった様子だ。顔をしかめた面々はしかし、口にしてはそれ以上の文句は言わずに小さくため息を吐いた。
 数日、じりじりと追い続けていた結果としては、完全なる失敗と言わざるを得ない状況が落胆の重石をかける。その中でも楽観的、否、無駄に明るいのは怪我を負った男だけだ。
「ま、あいつも無事じゃねぇし、これ以上続けて邪魔は出来ねぇだろうし、そういう意味じゃ今叩いておけて良かったんじゃねぇかな」
「だから、誰ですそれは」
「さてねぇ」
 どこまでもとぼけた男だ。だが彼はそれでも一団をまとめる立場にあり、それ以上に逆らうには恐ろしい男でもある。各自せり上がる愚痴を肚に戻しつつ、荒れた山道へと目を戻した。
 部下と同様にため息を吐き、端正な顔をしかめて男は問う。
「それで、これからはどうするんです?」
「ああ、それだけど……あのお稚児さんたちが、一生懸命何かを掘っていたってのは本当かい?」
「? ええ、そうですが」
「で、何か見つけた?」
 気楽そうに聞いてはいるが、その実、目は笑っていない。背筋に冷たいものを落としながら、男は慎重に答えを口にした。
「いえ、何かを手にした様子はありませんでした」
「ああそう、それなら良いんだけど……」
 口角を吊り上げたそれは、獰猛で狡猾な肉食獣のそれだ。機嫌の善し悪しを図りかねるところが、付き従う者にとってはどうにも辛い。
 下手なことを言えるわけもなく黙り込んだ面々を見回し、彼は舌なめずりしたようだった。
「それじゃ、これからのことだけど」
「……はい」
「そろそろ、頃合いだ」
「!」
「奴らも気づき始めている。……そろそろ、茶番は終わりにしようか、ね」
 奥底の見えない笑みを向けながら、声を潜めて先の回答を口にする。
 その彼の血に濡れた袖口で、灰色にも近い赤茶の髪が小さく揺れていた。


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