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 重ねて問えばバトラーは、一瞬迷ったように視線を揺らした後で口を開いた。
「旦那様はつい一時間ほど前に裁判所へお出かけになりました」
「そこまでややこしい話なのか?」
 裁判所とは言うが、実際に法廷で加害者被害者ともに同席して事の次第を審議される例はそう多くはない。大概は犯した罪について法務官が法と照らし合わせて判決を下し、拘束されていた加害者に自動的に服役が科せられるといった仕組みだ。無論、異を唱えることも可能だが、よほど新しい事実が明らかにならない限りはその訴えをして酌量されることはまずないといって良い。
 今回の事件は前者というには複雑な内容でもなく、襲撃者に刑が確定するというには早すぎる。故に驚き目を見開けば、バトラーは慌てたように首を横に振った。
「いえ、それなりの実害がありましたので、賠償問題等について話されるとか」
「賠償? それに国が関与するのか?」
「それについては私どもには判りかねます」
「それもそうか。では、父はいつまでに戻ると?」
「詳しくは。ただ夕食について何も指示なさいませんでしたので、夕方にはお戻りになるかと思いますが……」
 このまま家で待つかどうかという問いに、クリスは苦笑しつつも拒絶を示した。クリスティンの死亡後、実家に寄れば跡継ぎの話が出ることは恒例になりつつあり、クリスとしては長居したくともできない理由となっている。ましてや夜遅くともなれば泊まるように勧められることも必至、そうなれば決断を迫られるという事態に陥りかねないのだ。
 兄の今後に対し決定権を持たないクリスには避けるという選択肢を採るより他はなく、目の奥底で待つようにと促すバトラーの視線を引きちぎるようにしてクリスは家を後にした。
 一度大通りまで戻り、道の続きを法務省の方面へ進み、更に関連区域の端にある裁判所へと向かう。馬車の並ぶ庭先で馬を預け正門から施設内に入れば、古い建物独特の匂いが鼻を突いた。
 王都の北東の端にある裁判所は王宮に次いで古くからある建物だ。歴史だけが作ることの出来る重厚さが惜しまれ未だ使用され続けているが、さすがに端々に耐久力の限界が見え隠れしている。頻繁に行われている補修も追いつかない部分が多く、その為にか、外と同じような冷気が建物内でも幅をきかせているようだった。
 基本的に一般人が出入りする場所ではないためか、受付のようなものは存在しない。ましてや自由に出入りできるわけもなく、クリスは入ってすぐの扉前にいた警備員らしき者に名乗り用件を伝えることにした。
「お訊ねしたいがいいだろうか」
 声に、無言のまま男は視線だけを寄越す。
「今日、ここを訪れたパトリック・レイという男の身内で軍部に所属のクリストファー・レイという者だが、中に入ることは可能だろうか?」
「ここに、そのような者が訪ねるという報告は上がっていない」
 持って回った言い方だが、要は、予定外の訪問者を受け入れるつもりはないということだろう。
 にべもない返答に一瞬眉を顰めたクリスだが、男の言うことも尤もと言えば違いない。こういった場所で規則外のことに情による理解を求める方が間違っていると考えるべきか。僅かに逡巡した後、別の方面からの問いを口にした。
「では、入るための許可はどこで得られるのか教えてもらえるだろうか?」
「知らん」
 即答。おそらくは考えてすらいないと判る言葉に、さすがにクリスははっきりと眉間に皺を寄せた。
「番をしているのに知らないのか? ではあなたは、例えば身内の急な不幸があったからと訪ねてきた者にも同じ回答をするのか?」
 これには、男は返事もしなかった。答える気がないのか、有効な答えが見付からなかったのか。おそらくは両方だろうと思いながら、クリスは皮肉気に頬を歪めた。
「警備を役目としているとはいえ、全ての者を弾くだけなら鍵の方がまだ判りやすいだろうな」
「なに……」
「見知らぬ者を拒絶することが全てなら、お前はここには要らないだろうと言ったまでだ」
 遠回しに貶されたと気付いた男が気色ばんだ視線を向ける。だが、不愉快というのならクリスも同じだ。権力者の横暴がまかり通った百年以上前であればともかく、今はそのような専横の時代にはない。役割を力とイコールで結ぶような考えは前時代の遺物となっているのだ。
 そうした考えに加え、何やら抑えの効かない苛立ちがクリスの口を動かせた。
「扉を守る者である以上、あなたは入る者弾く者を選別する役目が与えられている。だが一方的に拒絶する権限まではない。予定外のことに対応する能力がないのであれば、別の者に代わってもらおうか」
「規則は規則だ。通せない」
「なるほど。では、特捜隊の名の下に通行を要請すると言えばどうする気だ?」
「な、――」
「本物かどうか、あなたはどうやって判断するつもりだ? それともやはり時間、人ともに通行予定はないと突っぱねる気か? 後で本物だと判って、その責任が取れるというのだな?」
 ただ機械的に「作業」をしていればいいものではないと暗に告げれば、男は継ぐ言葉を失ったようだった。
「答えろ」
 一歩、距離を詰めれば床に落ちた砂利が耳障りな音を立てた。鳴らしたのは男の踵で、気圧されていることは明らかだ。
 そうして更に一歩、いよいよ追い詰めるように上体を傾げた時である。
「レイ?」
 突然の呼びかけに慌てて振り向いたクリスは、そこに随分とすれ違って久しいと言える人物を見つけて目を見開いた。何故ここにと思い、すぐに自分の居る場所を思い出して小さく苦笑する。
「……お久しぶりです。キーツさん」
 バジル・キーツは法務省公安局総務課に所属する事務方のエリートだ。極めて珍しい偶然とは言え、街中で出会うよりは遙かに確率が高い。むしろ、クリスがこの場所にいるという方が意外性で言えば上の話だろう。
 思い直し会釈をしたクリスに、キーツはやや気遣わしげな声をあげた。
「いろいろと報告は聞いているが、体調は問題ないのか?」
「今は特に」
 男から距離を取り肩を竦めて見せれば、キーツは安堵したような笑みを浮かべた。
「随分な目に遭ったと聞いていたが、――しかし、こんなところで何をしているんだ?」
「つい先ほど出先から戻ってきたばかりですが、父が商用で持つ馬車が何者かに襲われたと聞き、追ってやってきました」
「ふむ……?」
 記憶を探るように斜め上を睨んだキーツだが、生憎と覚えのないことだったのだろう。首を傾げ、しかし生真面目とも言える表情でクリスへと視線を戻した。
「そんな大きな事件は起きていなかったと思うが……」
「いえ、単なる手続きの一環で呼び出されただけのようです。ですが、もしかして襲われた原因というのが私に関係するのではと思いまして」
「ああ、なるほど」
 クリスの身に起こっていることを知っているキーツは、さすがに理解が早い。襲撃の件を聞いてからクリスが想像したこととほぼ同じ内容が彼の頭の中で瞬時に展開されたのだろう。


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