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 道の途中で解錠できるはずがない。そうなれば当然、フェイクのために渡したものは初めからそれを見越して分けられていたということになる。
 クリスはバーナード・チェスターの残した手帳が”物証”であるという仮定を立てていた。しかしその場合であれば手帳そのものが必要となる。個人のメモの一ページが切り抜かれた状態で意味を成すとは思えないのだ。
「確認作業が必要なほどのもので、かつ一部分だけでも重要な意味を成すものといえば、……やはり、某かの契約書、或いは誓約書だったという説が正しそうですね」
「奇をてらったものを欲しがったわけじゃないが、そうなると、探すのがますます難しくなるな」
「何故です?」
「紙束ならいい。だが今回明らかになった敵との取引の可能性が本当なら、ノークス捜査官が王都まで運んだのはその極一部。馬車大破の衝撃で箱が壊れ、一枚から数枚の紙が放り出されたとすると、あの騒ぎで誰が持ち出したとしても判らないということになる」
 箱、というそれなりに質量のある物体を持ち運ぶと考えるからこそ「殴り合った上に逃亡した」誰かが重要人物となるのだ。紙片など折りたたんで懐に仕舞ってしまえば、あとは不審な行動さえしなければそのままでの逃亡は容易い。また別の方向から、箱に入って移動していた以上ある程度の大きさであるという推測になっていたが、それこそ紙数枚であった場合、最悪馬車の事故そのもので破損し失われている可能性も視野に入れる必要がある。
 或いはそれら考え得る事が、現在に至るまで”物証”を行方不明のままに至らしめている理由だとすれば、これほど頭の痛い話はないだろう。
(逃亡ルートが判るだけだと思ってたけど……妙な展開になってきたな)
 特に後者だとすれば、これまで大人数を動員して行われていたことが組織と政府共々の茶番と化する。
「現時点で最悪の展開は、そうして既に組織が”物証”を手にして嗤っていることだが、いろいろと画策して回っていることを思えば、その線は薄いと思う」
 キーツの言葉は事実であると同時に、彼の願いであるように響いた。
「まぁ、今考えても仕方ない。調査を切っ掛けにして他にも判ることが増えることを待つばかりだ」
「そうですね」
 少なくともクリスには、バーナード・チェスターの足跡と邂逅したことを含め、整理を付けぬまま放置していることが幾つか存在する。あれこれと手を広げても、抱えるだけで身動きすら満足に取れなくなるだけだ。
 思いつつ、再び足を速めたキーツに従い長い通路を抜ける。
「……それにしても、随分長い廊下ですね」
「時々あった扉の向こうに法廷があるが、言ってみれば敵味方入り交じっての討論になるわけだから、控え室やら入り口やらを厳正に分けてるんだ。どこの入り口から誰が入ったかとかは裁判官にしか判らないってこと」
「では、向かっている先は?」
「警備員の付いた会議室みたいなもんだな。本人達が必要な話し合いだが、二人きり、または関係者だけにさせたら刃傷沙汰が起こるだろうって担当官が判断した場合に人が集められる」
「そういえばキーツさんは、父の関わった事故のことをご存じで?」
「いいや。レイがここに来た事情を説明したときに、話し合いの用途で一室使うという報告を受けていたのを思い出したんだ。今日はそれらしいのが一件だけでな」
「なるほど。俺にとってはいいタイミングでした」
「こちらも居合わせて良かったよ。これでも一応、お前さんたちの動向は把握してるつもりでね。家族に被害があったとなればそれに関係があるかもと一応気にしなきゃいけないんだよ」
 キーツはこれまで、特捜隊の発起人である財務長官の意向を伝えるとき、或いは彼からの任務を請け負った場合のみクリスたちに干渉するという立場を守っている。放任、或いは口出ししない方針というわけではなく、集まった情報を的確に入手しまとめていることに徹するというスタンスであったようだ。
「まぁ、今こうしてレイに会わなければ、気付かなかったわけだが……」
「それでも、」
 助かりました。そう元の話へ戻るような礼を言いかけたと同時に、突き当たり右の扉がギィ、と開かれた。世はこともなく平和というわけでもなく、むろん裁判所も幾つかの慢性的にある事件を抱えている。誰かが出入りしたとして、別段驚くことはない。
 だがそこから現れた人物を見てクリスはもとより、キーツまでが目を丸くすることとなった。
「おや、あなたがたは……」
 50代半ばの容貌の整った紳士もまた、扉を開けた姿勢で止まったまま何度か瞬いたようだった。
 マーティン・ウィスラー。レスターの義理の父だ。更にその後ろに娘、つまりはレスターの妻である女の姿もある。
「これはこれは、婿どのがお世話になっております」
「いえ、こちらこそ、エルウッドの明敏なところには助けられております」
 ウィスラーの科白は驚くほどに直球だったが、キーツもまたそれに真っ向から応対したことにクリスは驚いた。何も知らない人が聞けば単なる挨拶に過ぎないのだろうが、彼にとってみれば心拍数を上げるほどのやりとりだ。
(特捜隊のことを知っていると宣言してるようなものだもんな)
 以前王宮で遭遇したときは、少なくとも表面上は素知らぬ様子だった。その間にどういう状況の変化があったのかは判らないが、少なくとも言い方向に向かったというわけではないだろう。「ルーク・セスロイド」と思しき人間が逃げた先としての可能性が消えない限り、未だ深部闇ばかりといった状態の王宮関係者相手に気を抜くわけにはいかない。
(そういやあの次の日に初めて王宮で会ったんだっけ。怪しいと言えば怪しいんだよな)
 王宮には、復権を目指して”物証”やそれに関係したものを手に入れようとしている勢力と、裏で組織と繋がっている勢力があるのだろうか。前者は国王と側近のセロン・ミクソン、――否、ミクソンは灰色だ。金と女に汚いという噂を除いても、マイラ・シェリーとその父の件に関与している可能性がある限り、組織との繋がりが否定できない。後者のうちはっきりしているのはケアリー・マテオのみ。だが彼は単なる近衛兵であり、それ以上の裏の顔がないのであれば、単純に使われる立場であると言える。
(王宮と権力を持ち出した三省の立場は相容れない。三省から権力を取り上げるために焦った勢力が、一部組織と結びついて世間を脅かしていてもおかしくはないか……)
 人身売買組織と手を組んだ権力層が将来的にどう崩壊していくかなどは、少し考えれば判ることである。だが目先の復権に囚われて周りが見えなくなる権力の亡者は、歴史を鑑みても少ないとは言い難い。
(それでも、実際孤立状態の王宮にしてみれば、人身売買組織の財力と外国での力は魅力的だろうな。……あくまで可能性だけど)
 そうつらつらと思いながら、何気なしに視線を向けていたらしい。キーツを当たり障りのない会話をしていたウィスラーが、ふと気付いたようにクリスに向けて柔和な笑みを浮かべ浮かべた。
「おっと、これは申し訳ない。お連れの方をお待たせしてしまいました」
「え? ……ああ、いえ、お気になさらずに」
 慌てて社交辞令を返したクリスだが、続ける話題が見つからずに曖昧に口ごもる。完全な初対面であるならともかく、クリスのことを知っているのか知らぬのか判りにくい態度であるだけに下手な言葉が返せないのだ。特捜隊の事を調べているなら前者の可能性が高いが、メンバーでなくその活動結果にのみ注意を払っているとすれば後者でもおかしくはない。


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