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(後ろにいるレスターの妻は確実に覚えているようだけどね)
 無言ながら、興味のなさそうな表情の奥に殊更蔑む色が見える。むろん、クリスの方から過ぎたことをあれこれと口にする気もない。
 他人には判るはずもない、しかしどことなく妙な空気に気がついたのか。キーツはごく自然な素振りでウィスラーへと話しかけた。
「お引き留めしたのはこちらも同じです。ウィスラーさんはこれから用事が?」
「いえいえ。終わって帰るところです」
「失礼ですが、何か事故に巻き込まれたといったことが……?」
 親子とは言え、別の家庭を持った娘とふたりきりで出歩くことは珍しい。ましてやそれが裁判所となれば何かあったとしか思えない状況と言えるだろう。
 だがウィスラーは一度娘に視線を流した後、苦笑しながら声を潜めて囁いた。
「私どもの知人が捕縛されたとのことで、まさかそんなはずはと駆けつけてきたのですよ」
「捕縛、ですか」
「ええ。何でも同業者に危害を加えたとか」
「!」
 ぎよっとしたのはクリスである。さすがキーツは動じた様子もない。驚いていないと言うよりは、その感情を表に出さずに収める事に慣れているのだろう。
「それはそれは……、しかし、ここにこうして出てこられたと言うことは、真相がはっきりしたということで?」
「真相と言いますか、状況を聞いて何か彼のためになることを主張できないかと思ったのですが」
 苦笑と微笑、その絶妙な境界にあるような笑みを浮かべ、ウィスラーは言葉を濁す。結論を言わぬ物言いだが、続く言葉が良からぬ結果であったことを示唆するものであることは考えるまでもない。
 判らないのは彼の感情だ。残念であるということを全身で示す一方で、その微妙な口元だけが全ての態度を裏切っている。
(これは……)
 尻尾を切った。限りなく確信に近い勘でそう結論を出し、クリスは喉に唾を落とし込んだ。横で慰めの言葉を口にしているキーツも、おそらくは気付いているだろう。
「それは残念なことですが、良ければ何か力になれるかも知れませんが……?」
 気遣うような言葉ではあるが、むろん真意はそこにはない。若干あからさまに探りを入れるキーツに向け、ウィスラーは緩く頭振った。
「いえ、お構いなく。お手を煩わせるほどのことではありませんので」
「そうですか。余計なことを申し出たようですね。申し訳ありません」
「いえいえ。お気遣いありがとうございます。こちらこそ、つまらぬことでお引き留めしてしまいましたね。……それでは、私どもはこれで」
 空々しい会話を打ち切るように、別れ際の定型句を優雅な礼で彩り、ウィスラーはそのままあっさりと去っていった。終始無言のまま、女もまた豪奢な金髪を翻して彼の後を追う。
 ふたりが通路の角を曲がり、更に充分な時間を置いてから、クリスは大きく息を吐き出した。
「とりあえず、お前の父親は無事のようだな」
 言いながらキーツは、気を取り直すように首の骨を鳴らす。
「しかし、逆に言えばウィスラーが初めから見捨てるつもりだったのか、事件が完全にお前のこととは別物の話なのかが微妙になったな」
「その言い方ですと、ウィスラー氏が組織の者のように聞こえますが」
「……組織の者じゃなくても、仲間の足を引っ張るために何かしでかすさ」
 つまり、これ以上三省が情報を得る機会を減らすために、あれこれと活動しているクリスたちが動けないような状況を作りあげることが充分にあるということだ。
 それをして、そんなことをしている場合ではないのに、と思うクリスは甘いのだろう。
(……それにしても)
 クリスの質問にキーツが答えるまでの僅かな間。判りやすい表現を使うために要した思考時間とも取れるが、その間に生じた微妙な表情の変化にクリスは眉根を寄せた。
(「その」可能性をどこかで考えているということか?)
 そんなクリスの内心での疑惑を敢えて無視するように、キーツは別の話題を口にする。
「それにしても、何で娘まで伴ったのかが謎だな」
「彼女もその知人とやらを良く知っていたというわけでは?」
「どうせ主張するなら社会的地位の高い方が強い。ウィスラーが喋った方が早いだろうな」
「確かに……」
「まぁ、考えても判る類の話じゃないか。それより、少し急ぐぞ」
 予定していたものか強引に割り込んだものかはともかくとして、話し合いの場に立ち会ったウィスラーが帰ったということは、それだけ終わりに近づいているということだ。本来の目的を思えばのんびり話している状況ではない。
 頷き、クリスはウィスラーが出てきた扉を開ける。その後明らかに早足で残りの通路を先導したキーツは、何やら話し声が聞こえ始めたT字路で突然足を止めた。
「そこの部屋だ」
「はい……?」
「ウィスラーが絡んでるから若干気にはなるが……私は一応部外者だからな」
 短く告げられた言葉にクリスは僅かに赤面した。入口の男の対応が切っ掛けであったとは言え、キーツは厚意でここまで連れてきてくれただけなのだ。担当している事件以外のところに顔を出せば、看過できない癒着を疑われることにもなる。
「すみません。それに、ありがとうございました」
「いいや。それでは、またな」
 慌てて謝罪と感謝を口にしたクリスに軽く笑みを残し、キーツは別の通路へと歩き去った。その足音が聞こえなくなるのを待って顔を上げ、クリスは厚意に何気なく甘えていた自分を叱咤する。
(さて、あそこだが……)
 大股で数歩近づき、眉根を寄せる。歩く事に、話し声だと思われた言葉が罵りの色を帯びていくのだ。
「全部貴様のせいだろうが!」
 いよいよ扉の前に立ち、ノブに手を掛けた瞬間、ヒステリックな叫びがクリスの体を震わせる。
「この……!」
 次いで、ガタガタと何かが床を鳴らす音。おそらくは椅子、そして室内のざわめきが緊迫感を帯びる。
 堪らずクリスは、伺いも立てずに蹴破る勢いで扉を開いた。
「父上!」
 そして踏み込んだ室内では、おおよそ想像通りの光景が広がっていた。
 倒された椅子、脇に除けられた机、前のめりの中腰で髪を振り乱す中年の男、その左右に係官、そして一歩二歩引いた姿勢のままクリスの方を向く父パトリック。判り易すぎる構図だが、パトリックの着衣に乱れはない。掴みかかる前に係官が職務を全うしたということだろう。
「クリストファー?」
 本来誰何すべき係官が何も言わないのは、クリスの第一声のためだろう。総意をまとめたような訝しげなパトリックの声に一度息を吐き乱れを整え、クリスは係官の方に向き直る。
 そうして突然この場に現れた非礼を詫び、パトリックの身内であること、扉を開ける直前の騒ぎに思わず入ってしまったことを伝え同席の許可を得れば、ふたりは鷹揚に頷いた。あっさりと承認された背景には、乱入者の出現により中年の男が唖然として抵抗を止めたことも関係しているだろう。


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