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「采配と言うほどでは」
「結構な損益となっている」
 厳しい声に、クリスはただ黙って深々と頭を下げた。商売には必ずどこかに賭けの要素がある。先のことは初めから不利な状態にあり、案の定賭に負けたというだけの話だ。他に手はなかった、あのまま放置しておく方が悪い結果になった、などの言い訳はするだけ無駄というものである。
 しばらくの沈黙の後、言葉を続けたのはパトリックだった。
「……だが、今後の取引に影響のない結果になった」
「影響があった場合の損益は?」
「鉱石関係から手を引く結果となっただろう」
 要は、今後の収益が今の損益など覆せるものだ、ということだろう。
「素人判断としてはなかなかどうして正しいものだ。よくやった、クリストファー」
「以前、父上がなさっていたことの真似に過ぎません」
「クリストファー」
 語尾を遮るような低い声に、クリスは来たかと喉を鳴らす。
「軍を辞めて跡を継ぐように」
「! それは、命令ですか」
「そうだ。レイ家の家長としての命令だ」
 はっきりと告げられた言葉に、クリスは唖然として目を見開いた。思わずテーブルに付いた両手の衝撃で、メイドの置いていったカップと中の紅茶が揺れる。
 パトリックは家のトップとして商館の経営者としてけして甘い人物ではないが、けして横暴でも独善的でもなかったはずだ。クリストファーが道を違えると宣言したときも命令という強硬措置をとったことはなく、喧嘩という名の説得が何ヶ月も続いていた。
 あの頃と何が違うのか。実のところ考えるまでもない。クリスティンという緩衝材と予備の存在だ。彼女に代わるような人材――具体的に言えばそれなりに能力のある親類縁者――は、一代で位をふたつ上げたパトリックには存在しない。
 貴族の称号は一家又は一族がその事業に携わるからこそ引き継いでいける称号である。全ての権利を他人に譲渡したとしても、血縁或いは戸籍の登録上の繋がりがない限りそれだけは引き継ぐことが出来ないのだ。これは思想もまた一族という括りのなかで引き継がれていくという考えに基づいているとされているが、実際は後継者による方針の転換を最小限に止めたいという意向の表れだろう。
 つまるところパトリックに残された手段は、どんな手を使ってでもクリストファーに後を継がせるか、リスクを承知で跡取りとして将来的に認められる年齢の子供を養子にとり今から教育を施すか、その二択しかないということだ。
 それは痛いほど判る。パトリックも己のことだけを考えて言いだしているのではない。クリストファーが「クリス」になり、数ヶ月を経て今に至るまで、「命令」を下さなかった事からも、親として子の体調を気遣う優しさがあったことは間違いないと判る。
 だがクリスの方にもおいそれと頷けない理由があるのだ。
「俺はレイ家という商家とは既に離れました」
 ――駄目だ、こんな言い方では。
 そう判りながら他に良い言葉も見つからずに、アントニーを拒絶した科白と同等の酷い言葉を投げつける。
「父上の命令に従う義理はありません」
「義理はなくとも契約はある」
「……契約?」
「そうだ」
 重く且つ苦々しげに、パトリックは睨むような目でクリスを見つめた。
「お前を引き取ってやったとき、そう契約しただろう」
「引き取って……?」
 何のことだとクリスは思う。そうした訝しげな表情がパトリックの導火線に火を付けたのだろう。
 何事かという思いが脳に浸透し思考回路へと繋がる前に、パトリックはクリスの意識を強制的に奪う科白を叩きつけた。
「とぼけるな! お前を庇ってくれたクリスティンはもういないのだぞ!」
「!」
「お前とは、将来この仕事に就くと約束を交わしたはずだ」
 言葉に、クリスは息を止めた。まさか、そこまで具体的な話があったとは知らなかったのだ。
「軍部へ行くのを許したのはあくまでもクリスティンが跡を継ぐとお前の責を負ってくれたからだ。あの子が自分の夢を棄ててまでお前の代わりになってくれたからだ!」
 そうしてこれには、違うとは言えなかった。確かにそういう一面はあったのだ。ただクリスティン自身は周囲が思うほどに自己犠牲であるつもりも、夢を絶たれて悲観しているつもりもなかった。クリストファーが軍部を志したのと同じほどに法務省勤務への具体的な夢を描いていたのなら、おそらくその意志を曲げることはなかっただろう。
 だが、その真実を知っているのは死んだクリスティンだけだ。今クリスが「彼女」の心境を述べることは出来ない。
「……一度許したことを反故しているのは父上も同じです」
「クリスティンが継ぐのなら、そういう条件だったはずだ」
「っ……」
 この場合経営者、否、親の身勝手はともかくとして、契約、約束という言葉を全面に出すのならパトリックの方が正しいのだろう。その経緯はクリスには判らないとしても、根っからの商売人であるパトリックがそこまで言うのなら虚言ということはまずないはずだ。
 つまりは過去にクリストファーは、父親と将来についての正式な取引をしたことになる。望む、望まざるに関わらず、――否、クリストファーの辿った道を見れば、後者であることは明らかだが――一度契約と言えるほどの約束を交わしたからには、本来責められるはクリストファーにあるのだ。
 ――そこに生まれてしまった以上付きまとう立場、個人の持つ望み、それが合致する例のなんと幸せなことか。
 クリスは進退窮まったことを自覚しながら、汗ばんだ手を握りしめた。受け入れるか拒絶するか、そんな単純な話ではない。覚悟という名の決定権がそもそもクリスにはないのだ。今までどうにか躱していた事柄が逃げ場を遮った状態で真正面に出現した、それだけの状況が殊更に恐ろしい。
(私が、兄様の将来を決める?)
 将来のことで揉めていた少年時代は過ぎ、クリストファーも軍で様々な人と出会い経験を積んだ後だ。子供が出来て親の気持ちというものも薄らと自覚し始めていただろうことを思えば、契約のことを含め、諦めて父の後を継ぐ決心をしたかもしれない。
 だがそうだったとしても、自分に決定権のないままに決まってしまった方向性を、肉体を取り戻した後で受け入れられるだろうか。
(駄目だ)
 受け入れられるはずが、ない。
 逃げたい。
 この瞬間だけでも、兄様に任せたい。心底そう思う。――そう、思ったときだ。
 不意に、体が揺れた。
(――え?)
 地震かと思い、否、とすぐに気付く。揺れは自分の平衡感覚の狂いに因るものだ。
 次いで急激に起こった浮遊感に、クリスは思わず心臓の辺りの服を鷲掴みにした。
「――……っ!」
 突如として全身全方位からの激痛が起こる。つま先から頭頂部までを捻られるような圧迫感。それらが数秒の間に悲鳴も上げられないほどの苦痛を伴って駆け抜ける。
「クリストファー!?」


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