[]  [目次]  [



 遠くに人の声。だがむろん、返事など出来もしない。
 そうして息をすることすら忘れるほどのその時間が過ぎた後、またも唐突にそれらは消え失せた。
 それにほっとしたのは一瞬のことだ。痛みが消え失せると同時に、今度は何もかもが無くなっていっていることに気がついた。次第に五感全てが解離していく感覚はけして快とは言えず、精神的な混乱から全身に汗が湧き出でる。
(何が、いったい――)
 思考自体はクリアであるにも関わらず周囲の何もかもが不鮮明に変わっていく。掴んでいるはずの服の繊維も踏みしめているはずの地面も、そうであるという認識をそのままに確かなはずの事実だけが薄れていくのだ。
 混乱、困惑、そして訳のわからないままに恐怖が全身を圧迫する。叫びたい、叫べない。誰か、と思い誰も思い出せない。
 今何が起こっているのか。
 今とは何なのか。
 何とは。
 自らに問う全てのことがその端から消えていく。襲い来る無力感。否、無力とは何か。
 消えていく。消えるとは、無くなるとは。
 ――お前は零になる。
 零?
 ――数とは個数だ。ないものに数はない。零は数で、しかし正でも負でもなく、あるのにない、ないのにある、お前はそれになる。
 漂い、流れ、だが何をすることと何ができることもなく。
 ――お前は、零になって償うのだ。
 無ければ無いままで、いつか空白は数となって埋められる。だが零になってしまった。空白は無いままに零という数で埋められ、他の何にもなれなくなった。
 色に零はなく、形に零はなく、音に零はなく、匂いに零はなく、故に何にも認識されないままあるという状態。
 流れ、漂い、ただ何もせず何も出来ず。
 そんな存在に、私は――

 ”大丈夫だ、ティーナ”

 突然響く声。
 優しい、声。私はそれを、知っている。
 
『止めろ、トロイ!』

「……!!?」
 一転。一瞬のうちに戻ってきた「感覚」にクリスは喉を鳴らして息を吸い込んだ。ひゅう、と引き攣れた音が耳に入る。
 いつの間に膝を突いていたのだろう。ボタンが引きちぎられるほどに強く握った指先から、額から、滴り落ちた汗が床の色を変えている。
 例えようのない不快感。倒れ込みたいほどの脱力感。煩いほどの鼓動。そして、両肩にかかる掌の温もり。
「クリストファー? どうした!?」
「……父上」
 顔を上げ顎を伝う汗を拭いながら、焦点の合わない目でクリスは声の主を捜した。
「一体何が……」
「それはこっちの科白だ。いきなり苦しみはじめて……大丈夫なのか?」
「え、ええ、はい。今は」
 限界まで全力疾走したときのような感覚は残っているが、説明のつかない不可思議な状態ではない。
「医者を――」
 言いかけたパトリックを遮り、クリスは緩く頭振る。そうすることで微かな目眩も感じたが、比すれば大したこともなく、数秒目を閉じて調子を整えればそれは綺麗に消え失せた。
「あの事故から、時々突然体がおかしくなる時があるのです。最近はなかったのですが」
「そうか、まだあるのか……」
 クリスティンが亡くなった事故の後、自宅で養生するクリスが急に力を無くす場面をパトリックも何度か目にしている。今回の状態はそれよりも遙かに深刻なものだったが、某かの発作という括りでまとめてしまえば他人に区別の付くものでもない。
 父の手をやんわりと除け、思うように力の出ないままになんとか立ち上がったクリスは、短い深呼吸を繰り返して息を整えた。
「申し訳ありませんが、父上、こういうことなのです」
 パトリックの目は揺れている。先ほど命令を下したときのような強引な色はなく、心配と困惑、そして不安がない交ぜになったような表情だ。内面を悉く晒すような顔は彼には珍しい。
 やはり関係に罅は入っていても親子かと、どこか安堵を覚えながら――クリスは拒絶の言葉を紡いだ。
「原因のわからない突然の発作を抱えた状態ではとても、父上の力にはなれそうにありません」
 望んで引き起こした状況ではないが、逃げるために利用しない手はない。咄嗟にそう判断した自分の思考回路に向けて作った皮肉な笑みは、父親にはこの現状を自嘲してのものと映っただろう。
「とは言え、発作の回数は減っています。後ひと月、ふた月、せめてもうしばらく様子を見させてもらえませんか?」
 それまでにはと思いながら小刻みに震える手を握りしめる。
 パトリックは考えているだろう。おそらく、クリスの抱えている発作の原因は精神的なのものにあるに違いないと。初期の頃はともかく、多くはクリスがクリストファーの内面について深く考えたときに起こることであり、そういう意味で彼の分析は間違っていない。
 だがそうした結論に至ったこと自体がパトリックには問題なのだ。精神的に追い詰められた時に奇妙な発作を起こす人材が、果たして利と益を巡っての修羅場をくぐり抜ける必要のある商人としてやっていけるのか。唯一の血縁、跡取り、もとからある才覚と堂々とした風貌、そういった資質とを秤に掛けてパトリックは迷っているようだった。
 沈黙。やがて、ため息と言うには深すぎるものが彼の口からこぼれ落ちた。
「わかった」
 短い一言に、クリスもまた息を吐く。
「だが、頼む。考えておいてくれ」
「はい」
 それまでには決着をつけると喉の奥で呟きながら、クリスは苦痛の名残のように額から滑り落ちた汗を拭い取った。
 未だ心拍は速く、浮遊感が残ったような脱力感と不快感も全身を侵している。だがそこにあるのは安堵だ。父親と口論を続けることを思えば、身体的な苦痛と引き替えに結論を先延ばしに出来たのはむしろ幸いだったと言うべきか。
 本来であれば原因不明の発作に動揺を禁じ得ないところだが、落ち着いてみれば何があったのかなどは判りすぎるほどの明白だ。あれが、と思いあいつが、と思い、幾つかの不可解な部分以外のことには確定に近い見当がついている。そうなれば、さほど現状に恐れなど抱かないものだ。


[]  [目次]  [