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 そんな、明らかに肩の力を抜いたと判る息子を前に、パトリックは僅かに寂しげな表情を作ったようだった。
「ではクリストファー、客室を用意させるから休んでいきなさい。それとも泊まっていくかね?」
 かけられて当然とも言える言葉に、しかしクリスは首を横に振った。
「無理をするな。さっきのは尋常ではなかったぞ」
「いえ、大丈夫です。今までの経験からすると、動いている方が早く治るのです」
「しかしだな」
「それに、数日家を空けたままにしています。妻が心配しますので」
 これは半分は嘘である。いつ戻るなどと明言はしていないのだ。例えばここで休んで夜半の帰宅になったとしても、明日の朝になったとしても大差ない範囲内と言えよう。その一方で、不義理という文字がクリスの目の前にちらついている。
(そうだった。エマにも話をしないと)
 出がけの如何にも不安そうなエマの姿を思い出し、クリスはどうしたものか後頭部を掻いた。話すとは言ったものの、内容は未だ考えられていない。
(けど、それを考えるからってここに泊まっていくっていうのは逃げだ)
 毒に倒れた後、今は前を向いて進むと決めたはずだ。それは行動だけではなく、心の中のことも当てはめる必要がある。クリストファーその人であれば辿っただろう未来から大きく離れないために、出来るだけのことはしなくてはならない。
 思い、クリスはパトリックに向き直った。
「本当に申し訳ありません」
「……いや、そういうことなら早く帰ってやりなさい」
 言葉の重みは、早くに妻を亡くし再婚もせずに仕事に打ち込んできた男だからこそ出るものなのだろう。
 見上げる目はクリスティンのそれと同じ彩度の低い茶色、だが同じだったはずの髪には白いものが判るほどに混じっている。以前、事故の後療養をしていたときはただ、痩せたなとだけ思っていた。クリスティンを亡くした心境が影響しているのだと。
(違うな)
 パトリックが殊更に小さくなったのではない。改めてみるに、明らかにクリストファーの方が大きいのだ。かつてはクリスティンがそうであったように、クリストファーも父親を見上げていただろう。
 だが精神的な成熟度はともかくとして、肉体的には既に両者の力関係は逆転してしまった。そうしてこれからも、その差は開いていく。
(未来、か)
 時間は過ぎていく。父はやがて老い、今彼のいる位置にクリストファーが達するだろう。成長、そして変化が立場を伴って人の生を押し流す。
 今は心底理解出来ることのないパトリックの感情、内心、そういったものをクリストファーもいつかは理解することになるのだろうか。そこまでを考えクリスは苦笑した。どちらにせよ、その時に自分はいない。
「? どうした?」
「いえ、何も」
「それならいいが、……本当に大丈夫なんだろうな?」
「はい」
「それなら、気をつけて帰りなさい」
 やはりどこか素っ気ないながらも、父親としての情ははっきりと滲み出ている。
 辞去をと考え、しかし適当な言葉も見つからずにただ頭を下げ、クリスはそのまま部屋を後にした。

 *

 帰る前に馬を返す必要性を思い出し軍部に寄ったクリスは、駄目もとでダグラスを呼び出すように依頼した。渋い顔の事務員が伝令当番に伝え、しばし入り口の隅に立ちつくして結果を待つ。
 時間はそれなりにかかったものの、丁度遅い昼を取っていたダグラスを捕まえることが出来たのは、すれ違う可能性の高い職場内では幸運だったと言えるだろう。
「そうか、滅多なことがなくて良かったね」
 裁判所内のことをかいつまんで話せば、ダグラスは問題なく処理が済みそうなことを喜び、そしてウィスラーとの邂逅に眉根を寄せた。
「まぁ、偶然じゃないだろうね」
「そんなちょっとした事件に首を突っ込むほど、王宮側が焦っているとみるべきか?」
「焦ってると言うよりあれだね。今はまだ諸外国の外交官が残ってるでしょ。うちのボスは素知らぬ顔だけど、法務長官不在なもんだから、宮廷管理官のセロン・ミクソンがこれ幸いと会議に顔出しててさ。そんなときに下手な事件を起こしたくないっていう方じゃないかな」
「そう言えば、財務長官もそちらにかかりっきりだったな」
「うん、そう。だから正直こんな時期にアランが僕たちに付いてきたことにはちょっと吃驚してたんだよね」
 なるほど、とクリスは腕を組む。ダグラスがやたらとアランに突っかかっていた裏には、そうしているうちにボロを出すのではないかという企みがあったようだ。結局それも空振りに終わったところを見ると、アラン自身が自分の立場と秘書としての能力に冷静な判断を下した結果に過ぎなかったということだろう。
 それはそうと、ともうひとり気にすべき人物は何をしているのだろうか。
「レスターには会えたか?」
「うーん、それがねぇ」
「?」
「休暇届を出した後、まだ戻ってきてないらしい」
「……この前俺と出かけたばっかりだぞ? そんなに休みなんか取れるものなのか?」
「どうも、王宮方面から強引な手が入ったみたいだよ。まぁ、レスターがそうしろと要請したのか、本当に王宮のごたごたでこき使われてるのかまでは判らないけど」
 どちらにせよ当人に会えない以上、サムエル地方で三人が抱えた疑惑は投げつけることもできないということだ。
「それじゃ僕は仕事に戻るよ」
「ああ、休憩中にすまない」
「いいよ、僕も気になってたし。ああそうだ、馬は識別札をつけて厩舎に預けといて。後で戻す手配しておくから」
「わかった」
「それじゃあね」
 短い会話の後にダグラスは慌ただしく立ち去っていった。今回の特捜隊の位置づけは、言ってみれば常に通常業務をしながらの待機状態なのだ。クリス以外は皆本業に忙しい。
 軍部にいるついでにガードナーへの報告もと思ったクリスだが、そこまで都合良くは進まないというものだ。数十分待った後、結局は会議中という報告を受けてクリスは大人しく軍部を後にした。
 時々窺うような視線を感じながら厩舎の担当者に馬を頼み、徒歩で家へと向かう。遠いとも近いとも言い難い微妙な距離だが、考え事をするには丁度良いと、途中の屋台で買ったパンを頬張りながらクリスはゆっくりと足を進めた。
 10月も末となるが、今日は日差しのためか比較的暖かい。のんびりと歩きたいというほどの陽気とまではいかずとも、大通りはいつもに増して人が多いようだった。中には若干気も早く、避寒の準備を始めている姿もある。


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