[]  [目次]  [



(そういや私になってから、エマをどこにも誘ってないんだよな……)
 クリストファーが所謂家族サービスに熱心だったとは思えない。だがエマと結婚する前にも、クリスティンの知らぬところで付き合っていた相手がいたくらいだ。それなりに人付き合いを無難にこなしていただろうことを思えば、やはり買い物に連れ出したり散歩をしたりといった気遣いくらいはしていたことだろう。
 一度だけふたりで出かけた先が墓参りとは、「女心を熟知しているはず」の旦那としては情けない限りだ。
(……止めよう)
 ただでさえ体調の不良も引きずり、苦痛も多い。考える内に様々な意味で凹んできたクリスは、後頭部を掻き毟り深々とため息を吐いた。
 人波を抜け、比較的閑静な住宅街へと入れば顔見知りにも少しすれ違う。そうした近所の人たちに挨拶をしながら家に到着したときには、既に辺りは暗くなり始めていた。
「……ただいま」
 扉を開け小さく告げれば、奥で人の走る音がした。どたばたと遠慮の欠片もない足音はカミラだろう。
「あらあら、まぁまぁ!」
 賑やかしい声と共に、短い廊下から丸い顔と丸い体が現れる。
「奥様! 旦那様がお戻りですよ!」
 無理に呼ばなくてもとも思うが、やはり出迎えてもらえるのは嬉しいものだ。若干の戸惑いも感じるが、レイ本家には今はない素朴なやり取りはクリスには好ましい。
 慌てたように、しかし慎重な足取りで階上から降りてきたエマは、クリスの顔を見るや春先の花のように柔らかな笑顔を浮かべた。
「お帰りなさい」
「ああ、遅くなった」
「元気に戻ってきていただけるだけで嬉しいわ」
 安堵したような声音に、クリスは一種の罪悪感を覚える。それというのも、まともに怪我も病気もしていない状態で旅先から戻ってくることが当たり前とは言えない前例が多すぎるからだ。皮肉でないことは判るが、多少の苦笑は禁じえない。
「あなた、夕食はどうします?」
「軽いものでいいから作ってもらえると助かるが」
「……どこか体調が悪いのですか?」
「いや?」
「あら、それではしっかりしたものを作りますね」
 どうやら、突然の帰宅に食事の用意を追加させては負担だろうという気遣いは、懸念のもとであったらしい。
(いや、違うか)
 クリストファーならいつでもがっつりと、作り手のことまでは深く考えずに「食べる」とだけ言い切っていたに違いない。やはり最近は素のクリスティンがよく出てしまうなと、厨房へ向かうエマの背を見つめながら頬を掻く。
「旦那様、夕食の準備が出来るまで何か召されますか?」
「いや、暖かい茶がもらえればそれでいい」
「かしこまりました」
 小さなレイ家には本家のような立派な応接室は無い。水場で火を熾し湯を作り、旅の疲れを十分に拭ってから自室へと戻ったクリスは、整えられたベッドへ転がり、ほうと息を吐いた。
(なんて言おう)
 危険が飛び火することを考えると、大きな嘘をつけないエマには特捜隊のことは言うに控えておいたほうがいいだろう。要はいつ何時出かけるか判らないこと、いつ戻るなどといった期間の定まった任務ではないことを上手く言えばいい。
 辻褄が合い、且つ無理の無い設定をと考えているうちに時間は随分と過ぎていたようだ。呼んでもなかなか返事しなかったとカミラに批難されつつ食事の席についたクリスは、普段よりも豪華なそれに首を傾げることとなった。
「……どうしたんだ、これ」
「今日は良いことばかりなんですよ」
「ちょ、ちょっと、カミラ!」
 訳知り顔のカミラに赤い顔を見せつつ、エマは窺うようにクリスを見やる。何度か瞬いた後、早々に考えることを諦めたクリスは、比べて口の軽そうな方へ問うた。
「何があったんだ?」
「ひとつは、旦那様が無事にご帰宅なさったことです」
「しかしそれでは、準備も間に合わないだろう?」
「もうひとつは……」
「カミラ、自分で言うわ!」
 赤面はそのままに、エマは覚悟を決めたようにクリスを見上げた。
「お医者様に、安定したようだねって言われたんです」
「……なるほど」
「それに、今日はじめて、お腹を蹴ったって感じがあって」
 さすがに目を見開き、次いでやってきた感動にクリスは知らず喜色を浮かべていた。
 甥か姪か、判らないが元気で生まれる準備をしている。それが素直に嬉しかった。そうしてそれは、言葉にせずともふたりに通じたのだろう。一方は照れくさそうに夫を、一方は微笑ましげに若い夫婦を見やる。
 そんな和やかな空気が心尽くしの料理の美味しさに拍車をかけ、あっという間に皿の上から物は消えていった。
 やがて目の前に芳醇な香りを放つ酒だけが残る頃。
「旦那様、そろそろ名前を考え始めては如何ですか?」
 思わぬ不意打ちに、クリスははたと動きを止めた。軽口、或いは流れに沿ったもっともな声かけ。しかしそれはクリスの同様を誘うには充分なものだった。
(名前……?)
 暖かな空気を否定するように、ぞくり、と背中を駆け上がる何かがある。
 名前。未来の子供のための。
 自分が、その腕に抱くこともないというのに?
「……産まれるのはまだ先の話だろう。男か女かも判らないのに」
 動揺が見える形となって表れる前に、クリスはどうにか声を絞り出した。せいぜい、思わぬことを指摘されたと言わんばかりに、父親としてうっかり忘れてたと見えるようにと心がける。
「さすがに早いだろう。カミラは準備の手際もいいが、先走りすぎるのは良くない」
「いいえ、いいえ。直前になって慌てるより、候補を決めておいたほうがいいと思いますよ。うちの姪っ子なんて、後で後でと言ってたら直前に夫が遠くへ仕事に行くことになって、そりゃあもう慌てたもんですから」
 それはそうだろう。言っている意味は判る。勿論のこと、必要性も。だが。
(……子供の名前か)
 エマとカミラには判らないように内心で苦笑する。
(私が決めていいわけないじゃないか)
 それは間違いなくクリスティンの仕事ではない。若い夫婦が考え抜くものだ。
 だが否定の言葉は口に出来ないと、胸の奥に溜まっていく苦々しさと寂寥感から目を逸らして僅かな笑みを浮かべた。
「考えておく。だがあまり期待してくれるな」
「ええ、奥様とよくご相談なさって下さい。でも旦那様、女の子であっても”クリスティン”はいけませんよ」
「あら、いいじゃない」
 それはないなと言いかけたクリスを遮って、エマが唇を尖らせる。


[]  [目次]  [