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「女の子で、顔立ちが父親似だったらそうしようと思ってたのに」
「エマ、それはさすがに……」
「あら、あなたになら賛同いただけると思ってましたのに。おかしいですわね?」
 ごく当たり前のように言うエマに頭痛を覚え、クリスは額を手で押さえた。同時にその裏で、やはりエマはエマのままだと苦笑するクリスティンが居る。
「奥様、旦那様の妹君がそれは素晴らしい女性でしたのはカミラもよく存じておりますが、旦那様とお嬢様の愛称がまた同じになるのはいかがかと」
「いいじゃない。ふたりともクリスと呼びかけても、ちゃんと声の調子で聞き分けていてくれたわよ?」
「……奥様」
 エマのそれは天然なのか計算尽くなのか、未だに少し迷うときがある。実際のところ妄信というのが近いのだろうが、認めたくないことは世の中に多々あるものだ。
 安堵と呆れ、それにより一時期の焦りが霧散していくのを感じながら、クリスは席を立つ。
 ――このまま聞いていたい気もするが、それでは決心が鈍ってしまいそうだった。
「あなた?」
「エマ、少し話がある」
 躊躇いを含んだ微笑、それでエマは何事かを察したのだろう。軽い笑みを消し、頷いてからカミラを見やる。
「片付けはお願いしていいかしら?」
「……ええ、もちろんですとも」
 お喋りなところはあるが、カミラもベテランのメイドだ。何事かと心配気に夫妻を見比べた後、表情を消して首肯した。そうして手際よく水差しとコップをトレイに乗せ、申し訳なさそうにエマに渡す。
「何か他にご入用でしたら、声をかけてくださいませ」
「ありがとう。そうさせてもらうわ」
 エマはにこりと笑う。だが実際には緊張しているのだろう。トレイを持つ両手はわずかに震えていた。
「俺が持つ」
 目を伏せ、やはり自分は今までエマをよく見てなかったのだと落ち込みながら、クリスはトレイを強引に奪う。
(動揺がすぐに表に出る子だってのは判ってたのに、気づいてなかったなんてな)
 思えば、事故から目覚めてすぐの頃、クリストファーとなってエマと再会したその時のほうが、まだ彼女のことをよく理解してたのかもしれない。
 反省と後悔を頭に廻らせたまま、クリスはエマを伴って階上の寝室へと向かった。扉を開けテーブルの上にトレイを置き、暗い部屋に明かりを灯す。
 冷えるだろうと互いにもう一枚羽織れば、クリスの思いに反して話す準備は整ってしまった。ベッドに腰をかけたエマが、立ち尽くすクリスを不安気に見上げている。
(……駄目だ)
 せめて前振りの言葉をと思うが、出てこない。いろいろ考えていた事が、なかったかのように言葉の引き出しから消えているのだ。
 緊張で頭の中が真っ白になるということはよくある話だが、今はそうではない。言葉の跡地を埋めているのは罪悪感だ。身勝手にもここまできてクリスはエマに、もっともらしい誤魔化しを告げることを躊躇っている。
 迷って横に座り、悩んで視線を外す。そんなことを繰り返して十数分は経っただろうか。
 覚悟を決めて体ごとエマへと向き直り、思い切って見下ろした彼女の表情を見て、クリスは一旦開きかけた口をまた閉じることとなった。
「あなた?」
 目を細め、エマは両方の口端をなだらかに上げる。そうしてクリスの手に添えた指先は、もう震えてはいなかった。
「……何も聞かないんだな」
 穏やかな笑みを持って迎えたエマに、クリスはぽつりと呟いた。
 アントニーのように感情をぶつけられるのは辛い。だがそうと知って尚隠され続けるのも同等に苦しいものだ。
 そんな八つ当たりに近い思いを抱いていることに気付いているのかいないのか。エマは子供と窘めるような表情で軽く首を傾げてみせた。
「あなたが急な任務に就かれたことは、軍の方から連絡を受けてますわ。そういうお仕事だって判ってますから」
「だが以前は逐一報告していだろう?」
「あらあら。今のあなたの軍での立ち位置が少し特殊なのは私でも知ってましてよ。復帰まで中隊長の非正規の臨時補佐をやってるんですって?」
「――……」
 さすがに返答が思いつかず、クリスは何度か瞬くこととなった。エマがあまり現状を詳しく聞いてこないことは不思議に思っていたが、なるほど、そういう話になっていたのかと今更ながらに苦笑する。
(てっきり、普通に仕事に復帰していると思っているんだと決め付けてたな……)
 だが、人から話を聞いているからとそれで済ませるわけにはいかない。アントニーとの約束もある。だがそれ以上にクリスは、エマの気遣いの上に甘えていたことに気付かされていた。
 そしてそれに気づかぬまま、真正面から古い知己と向き合おうともしていなかったことも。
「――エマ」
 未だに何と言おうかは迷っている。それでも言い出さなくてはと意を決して口を開く。
 そんなクリスに目を細め、エマはすっと人差し指を口元に当てた。
「言わないで」
「エマ」
「良いの、言わなくても」
 戸惑うクリスに、エマは唇から指を外し、両手をクリスのそれに重ねた。
「莫迦。本当に莫迦」
 泣き笑いの表情で、エマはクリスをじっと見つめやる。
「約束したじゃない、私たち。お互いが大切な一番じゃなくても信じることの出来る一番になりましょうって」
「――」
「不安じゃないなんて言えば嘘だわ。あなたにいろいろと聞きたくて胸が痛くなる。手だって震えます。けれど、あなたを疑ったことだけは一度もありませんわ」
 淀みなく、――それは真実、本心なのだろう。
 「約束」などクリスは知らない。クリストファーとエマがどんな気持ちでそう誓い合ったのか、知る由もない。
 だが判る。エマはきっと今のクリスが何を欲しているのかを判っている。そうして、それを与えてくれようとしていることも。
「クリスが死んだとき、あなたは泣いていいと言ってくれたわ。何も言わなかったのに、私のことを判ってくれた。私の心を守ってくれた。それだけで充分」
 それは、クリスティンだったからこそできたことだ。だがそれは違う、とは口には出来なかった。
「私があなたにできることは少ないけど、これだけは忘れないで。私はあなたを信じている。だから何も言わないで」
「だが」
「本当に莫迦。がむしゃらに働いて、忙しさで時間を埋め尽くして目を逸らして」
 エマは、目を細めた。


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