[]  [目次]  [



「でもあなたもそろそろ、――泣いていいんですよ」
「それは……」
 それは違う。再び心の中で否定する。
 だが次の瞬間、クリスの両目は熱を孕み、滲むものが瞼を越えて頬へと流れていった。一拍遅れて、喉が引き攣るように詰まる。
 エマは、静かに微笑んだようだった。
(……なんで)
 自分はクリスティンだ。「クリスティン・レイ」が死んで悲しむような滑稽な自己陶酔の素質は持ち合わせていない。
(なのに何で、泣ける)
 いろいろな意味で泣きたいのはクリストファーで、だからこそ体が涙を流しているのだろうか。思い、しかしクリスは緩く頭振る。違う、今泣いているのはクリスティンだ。苦しい何かが胸の奥底から溢れている。
「あなたがひとりで何を抱え、何をしようとなさっているのかは私には判りません。だけど我慢しないで。人になんと言われようと苦しいものは苦しいんだって、教えてくださったのはあなたじゃないですか」
 新しい事件に上書きされて、すっかり遠くなってしまった記憶を思い出す。
(苦しい? ……苦しいのか、私は?)
 ――ああ。自問にそう、心の底でクリスティンが頷いている。
 思えばこの状況に陥ったクリスが自棄のように当たり散らしたのは目覚めたその日、ゲッシュが現れたその時だけだった。
 何故自分が死ななくてはならないのか。
 何故こんな状況になっているのか。
 何故、兄の真似をして怯えながら日々過ごさなければならないのか。
 どれもこれも自分が明確な意志を持って引き起こしたことではないにも関わらず、クリスは実は大きな負担を負わされていたのだ。それも、最終的に自分がこの世を去ると言うことが大前提で。
(私の、せいじゃない)
 そう叫び、
(私だって、死にたくなんかなかったんだ)
 そう、泣きたかったのだ。
 未来もなく、ただひたすら終わるために足掻く。そんな状況が苦しかったのだ。
 たまらず、クリスは目の前の柔らかい体に縋り付く。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
 エマのその言葉には何の解決策もない。呪文のように唱えたところで何かが解決するわけではない。この先に繋がるものが提示されたわけでもない。だがその言葉は確かにクリスに必要なものだった。
 話せない。どうしようもない。だが理解って欲しい。
 そんな矛盾した思いがエマとつながった指先から解けていく。そのまま受け入れてくれる。それだけのことが、ただひたすらに心に沁みる。
 ――ああ、泣きたかったんだ。ずっと。
 導き人に言われるまでもなく、判っている。自分が今意志を持って存在することは罪だ。それを嘆く資格など本当はないのだろう。
 そうして躓き、悩み、どれだけ精一杯行動したところで、「クリスティン」はもういない。

 ”しかし、さすがは商人の息子だな。よくものを知っている”
 ”素人判断としてはなかなかどうして正しいものだ。よくやった、クリストファー”

 ”お前がその執着のもと、自分がやらねばと踏ん張ったところで、それが『お前』への賞賛になることはない。受け取るのはお前が乗っ取っている肉体の主だ。――虚しいとは思わないか?”

(……虚しいさ)
 ぼろぼろと涙をこぼすクリスに、エマが小さく囁く。
「前の凛々しいあなたも、今の少し情けないあなたも、私にとっては大切な人に違いありませんわ」
 優しい声が沁み渡る。
(虚しいに、決まってる)
 ――だがきっと、それだけではない。今クリスが感じている思いは、確かにクリスティンがエマから受け取ったものだ。情けないなど、クリストファーであれば言われることのなかった台詞だろう。
 そう思えば、不意に笑いがこみ上げた。
「あなた?」
「……いや」
 何でもない、そう言いかけて身を起こし、反対にエマを抱き寄せる。
「なんて素敵な妻で、――クリスティンは本当にいい親友を持っていたのだな、と思っただけだ」
「……過去形でなければ、もっといい科白なのですけど」
「違いない」
 本当にそうだ。もっと生きて、喜びを分かち合いたかった。もっと生きて、まだ知らぬ沢山のことを共有したかった。後悔も悲しさも死にたくないと思うことすら本当は当たり前のことで、きっと、そう思うことまでを否定する必要はなかったのだろう。
 それは罪なのだと、思ってはいけないことなのだと、そんな思いが土台になっていた行動に、気づかぬうちに心はずっと抑圧されていたのだ。
 生きたいと思う一方で、実のところ自分の死に目を背けていたのだろう。
(本当に、莫迦だな)
 エマはクリスの現状を知っているわけではない。彼女の口から零れクリスに流れた言葉も、根本は同じくしながら見当違いの思いから発せられたものだ。だが、不義理なクリスをそのまま受け止めようとしていてくれる心が、ひとり秘密を多く抱えた心に沁みた。
 沁みて、クリスを優しく癒してくれる。
「あ」
 優しい思いに浸るクリスの腕の中で身じろいだエマが、ふと何かに気づいたような声を上げた。
「今、動きましたよ」
「?」
「ここですよ」
 笑い、エマはクリスの手を自分の腹部へと導いた。若干それらしき体型になってきたとは言え、まだまだ彼女の腰は細い。
「ほらまた」
「……俺には判らないが」
「あらあら、残念ね。お父様はもっと腕白になれってお望みよ?」
 まだ見ぬ子供に話しかけるエマ。クリスの目尻に溜まっていた最後の滴が、母となる親友の姿を映しながら頬を滑る。
(――もう、大丈夫だ)
 息を整え、クリスは口元に弧を描く。
(今こうしているのは私で、感じているのは私で、だから誰に覚えられなくても、どんな存在になったとしても、私だけは覚えてる)
 たとえこの先にどんな結末が待ち受けていようと、それだけは忘れない。
 いつか別れるこの優しい人たちのために、今自分が出来る精一杯のことをしよう――……。
 そう、クリスは心の中で繰り返した。


[]  [目次]  [