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 *

「……で、なんであんたたちはここに来るのかね」
 呆れた口調で乱暴に水を置いたのは、婀娜っぽい美女、モイラである。
「ここに来たらあたしも巻き込まれるとか見つかるとか、そういう気遣いはないのかい?」
「考えたんだけどさ」
 遠慮なく水を一気に飲み干し、ダグラスはひと心地ついたように息を吐く。
「うちの上司に連絡取るのって結構面倒なわけ。好き勝手するもんだからどこに居るかも判らないしね。その点ここは”物証”が見つかって以降同僚が毎日様子見に来てるからさ。夜には接触できるし、下手に動いて連絡取ろうとするより確実かなって思って」
 モイラの文句はクリスも危惧した事である。存在が公になること、特に組織に知れることが好ましくない人物の所へ避難するのは如何にもリスクが大きい。商業区まで逃れたのであればそこから軍部へ戻っても大丈夫だろうと主張したクリスだが、結局はダグラスに言い含められるという結果に終わった。
 曰く、王都にいる不特定多数の労働者を使ってまで妨害をしてくる事態は看過できない。その対策に軍を動かすにはクリスの上司では力不足であり、やはり軍務長官に直接言う必要がある。だが部下であるダグラスにも長官の行動予定ははっきりしないものであり、会えるかどうかは運に左右されると言う。
「だから、予定を開けてもらうには事前に知らせておくのが一番なんだよね」
 その為に、夜に必ずやってくる同僚を使う必要がある、――そう断定されれば、クリスに反論する術はなかった。
 突然の訪問に不機嫌な様子を隠さないモイラだが、来てしまった以上追い出すこともできないのだろう。今日は客は取らないと館の主人に伝えた後は、こうしてそれなりの世話を焼いてくれている。ありがたいといえばありがたいが、若干肩身は狭い。
「ダグラス、同僚と接触した後はどうするんだ?」
 夜陰に乗じて軍部へという手もあるが、闇が有利に働くのはクリスたちばかりとは限らない。「ルーク・セスロイド」の存在を考えれば、動くのは昼の方がまだしもと判断すべきだろう。
「折角だから朝まで休もうよ。報告に戻った同僚が伝言持って戻ってくるかも知れないし」
「まぁ、それはそうだが」
「惜しむらくは、こういう所に来ておいて、色気のあることひとつもないことだよね」
「色っぽいことしたかったら金出しな」
 突っ慳貪なモイラに、ダグラスは大げさに項垂れた。その下を向いた顔がおおいに笑っているところを見るに完全な冗談だとは判るが、こういうことを言い出すあたり、彼もやはり男と言うべきか。
「クリスはくそ真面目だよねぇ」
「褒め言葉と受け取っておく」
「あらら」
「まぁ少なくとも、あんたよりはいい男だわ」
 モイラの横やりに、ダグラスは眼を細めながら口を尖らせた。
「止めな。せっかくの可愛い顔が台無しだよ」
「え、何それ、扱い酷くない?」
「冗談さ。――それより」
 艶っぽく微笑んであしらい、モイラはクリスの方へ向き直る。
「その……、前に渡したパトリシアさんの指輪、処分してくれたかい?」
 はっとして、すぐにクリスはバツの悪い顔となった。忘れていたわけではないが、遂行したという報告ができないのは些か心苦しいものがある。
「悪い。棄てる場所の見当はつけたんだが、いろいろあってまだ持ってる」
 一度はサムエル地方の屋敷に向かったクリスだが、そうした余裕のない旅路となってしまった。棄てるだけであれば幾らでも機会はあったが、それを見咎められる可能性があった以上、下手なことはできなかったのだ。
「そうかい。まぁ、いつでもいいけど頼んだよ」
 頷き、クリスは上着のポケットにある指輪を思う。
 そこでふと、黙って聞いていたダグラスが、どこか迷うような顔つきでモイラへと声を掛けた。
「あのさ、聞きにくい事なんだけど」
「なにさ?」
「その指輪の元の持ち主のパトリシアって女性。もしかしたらパトリシア・ウィスラーって言わないかい?」
「!」
 瞬時に、モイラは目を見開いた。その名字に眉根を寄せたクリス以上の反応である。
「なにそれ、あんた何を知って……!? まさかパトリシアさん、生きてるのかい!?」
 立ち上がり、モイラはダグラスの襟首を掴みあげた。その剣幕にさすがに押されたように、ダグラスは椅子の背もたれをギシギシと鳴らす。
「待って! クリスも! 吃驚してないで助けてよ!」
「あ、ああ、そうだな」
 さすがに、女相手に強引な力を振るうわけにもいかないのだろう。悲鳴に近い声に、我に返ったクリスがモイラを宥めて椅子へ戻す。紛う事なき美女に詰め寄られたダグラスは、ずれ落ちかけた体を引き上げ、大げさなほどに深いため息を吐き出した。
「僕はレスターみたいにガツガツしてないけどね、さすがに女に押し倒される趣味はないよ」
「ふざけてないで、どうなのか教えなさい!」
「……モチベーション下がるなぁ」
 どうやらこの男、どこか崩した部分がないと興に乗れない性格であるらしい。
「まぁいいよ。そのパトリシアさんという人だけど、残念ながら死亡の確認も生存の確認も取れてない。そういう意味では希望はあるね」
「……」
「ただ、鉱山なんかに連れて行かれた男は案外生き残った人から消息がわかることもあるけど、女の人は運良く逃げられた人以外は全く判らないんだ。逃げたとしても、素性を隠している可能性の方が高いしね」
 がくりと、モイラは肩を落とす。ごめんねとダグラスが呟けば、彼女は緩く頭振った。手がかりに食いつく程度の希望は持ちながらも、厳しい現実も判っているのだろう。言ってみればモイラ自身、世間からは抹消された人間だ。彼女の知人が捜していたとしても消息不明のまま、けして跡を辿ることなどできはしない。
 やがてモイラが顔を上げ、疲れたように椅子に身を預けたのを見つつ、クリスはダグラスへと耳打ちした。
「ダグラス、ウィスラーって……」
「うん。レスターの義父がそうだね」
「掠われたのか?」
「どうだろう。さすがにパトリシアって女の人の名前が出てきたのがこの前だったからね。現存する組織の被害者の名前を資料で漁ってたら該当する名前が出てきたってだけで。ただ……」
 躊躇い、ダグラスは更に声を潜めた。
「実はウィスラーの親戚関係に被害者が意外と多いんだ」
「美男美女が多くて狙われるとか?」
「そうも考えられるけど、もっと現実的に言えば、組織や権力者に売ってるって可能性がある」


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