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「印?」
「指定の場所にペッて紙を貼っておくだけだよ」
 悪戯っぽく笑っているが、何か異変があった場合の目印ともなれば普通は大事を想像するだろう。クリスとしては、慌ててやってくるだろう諜報員への同情を禁じ得ない。
「紙、ねぇ? そんなおかしなものはなかったと思うけど?」
「うん、パッと見判らないものだからね」
「あまり勝手なことはしないでおくれよ」
「大丈夫だよ。見たら剥がすからね。放っておいたとしても子供の落書き程度にしか見えないし」
「へぇ?」
「僕は上司の似顔絵にしようよって言ったんだけどなぁ。却下されちゃったんだよ」
「……お前、絵は得意なのか?」
「とりあえず、僕が書いた地図は読めないって評判だよ」
 クリスも人のことを言えた身ではないが、言が本当であればダグラスも相当酷いに違いない。
「そういやヨーク・ハウエルは絵も得意だよねぇ」
「あ、ああ。相当に上手かった」
「ああいうの、器用貧乏って言うんだよ」
 随分とハイレベルな器用貧乏だ、とクリスは苦笑した。
 そこに、モイラが口を挟む。
「ねぇ、そういやこの前見せてくれた顔絵、今も持ってるかい?」
 軍務長官の促されるままに見せた、「ルーク・セスロイド」の絵のことだろう。確かその時は見たことはあるが詳しくは知らないという結果だった。
「いいや、今はないが」
「そう。……だったら、推測になるけどいい?」
「?」
「ああいう顔の男の名前。自信はないけどそれらしいのを思い出したからさ」
「!」
 がばり、とクリスとダグラスは同時に身を起こした。勢い腰を浮かし、また座り直し、動揺を平常心で抑えつけながら強い視線をモイラへ向ける。
 急に詰め寄られたモイラにしてみれば堪ったものではないだろう。やや引いた様子で顔を強ばらせ、やや気拙げに断りを口にした。
「間違ってるかも知れないし、そういう時の保証はないよ?」
「構わない」
「それなら……。ええと、ヴィックと呼ばれてたよ。確か」
「ヴィック……?」
「……え。それって」
 瞠目。一秒置いて、クリスとダグラスは互いの顔を見合わせる。
 ヴィックは短縮形だ。おそらく正式にはヴィクター。珍しくもない名前とは言え、クリスたちはひとり、確実に組織に、あのサムエル地方の館に関わった人物を知っている。
 そして、クリスが先に呟いた。
「ヴィクター? ヴィクター・リドリー……!?」
「まさか。奴はチェスターよりも先に死んでるじゃないか。公式にそう発表されてる」
「いや、ダグラス、よく考えろ」
 焦る頭の中で、ひとりの男の死因が警告するように点滅している。
「リドリーの死因は、溺死だったはずだ」
「! そうか!」
「ジェフ・モルダーと同じ偽装がされていたとしたら? 雨で流されて発見されなかったら、彼の遺体はケアリー・マテオあたりの代わりにされていた可能性がある。同じ事が十数年前になされていたなら」
 死因の他にもうひとつ、クリスには心当たりがある。リドリーが生きている、そう仮定することで理由のわかるもう一つの謎。逆に言えばそれは、リドリー生存説の後押しをするものとも言える。
「汚職事件の記録が抜き取られてたのは、バーナード・チェスターの存在をどうにかしたかったからじゃない」
 思い出すように後頭部を掻きながら、クリスは呟いた。
「ヴィクター・リドリーという人物の痕跡を、ひとつでも多く消すための処置だったんだ。多分彼の名は、ハウエル法務長官が資料を残していなければ、今になって表に出ることもなかったはずだ」
 だが、とクリスは思う。
(リドリーが生きている意味は……?)
 ジェフ・モルダーをいなし、クリスに圧倒的な腕前を見せた手練れ。今回の一連の事件で暗躍する男。相当に優秀な人物だ。
 過去、サムエル地方の館の初代管理人を務め、チェスターの汚職の片割れとして組織に粛正され戸籍から名前を消した。彼が本当にダグラスの推理通りにチェスターと接触し、不正にまつわる事に関わっていたのかは今のところ想像の範囲でしかない。
「ちょいいかい、クリス」
 言い聞かせるように、否、自分の考えを整理するようにダグラスは早口で呟く。
「昇進の為の審査ってのは、そこに賄賂とかを持ち込んだ場合罰則がキツイ」
「あ、ああ……?」
 突然飛んだ話に、クリスは疑問符を浮かべながらも頷いてみせる。ふたりの様子から危ないものを察したのか、モイラは眉根を寄せて話を聞きながらも口出しは避けている様子だ。
「だから罪を犯す場合でもばれないために最大の注意を払う必要がある。それこそ、関わった人物の内で決定的な弱みを握ってない人物を悉く殺す、くらいにね」
「それは、あり得るだろうな」
「うん。だから僕は、リドリーが殺されてると信じて疑わなかった。組織の都合の良い手駒として、あちこちの不正に関わらせて、その上でチェスターのついでに粛正された、そう思ってたんだ」
 一度俯き、喉を鳴らしてから体の向きを変え、ダグラスはクリスを正面から見据えた。
「けど、生きて、更に組織に使われてるんだとすれば?」
「ゼナス・スコットが不正に領主と成りおおせたなら、関係者を生かしておく理由はない。生きているなら、相当に信頼されていたか……」
 言いながら、それはないと否定して次の予測を口にする。
「スコットよりも立場が上か」
 下っ端の振りをして、更に死んだ者として戸籍までも削除して、部下を盾に暗躍する。スコットが組織の力をふんだんに使い、イエーツ国でのトップとして領主という地位に就いたのではなく、組織の駒のひとつとして組織のためにその地位を宛がわれたのだとすれば。
「首魁はスコットじゃなくて、リドリーなんだとすれば現状も納得できる」
「つまり五年前、最も肝心な人物は、ゼナス・スコットという生け贄を捧げて逃げおおせたということか!?」
「組織の残党の抵抗や外国で幅をきかせるフェーリークスがこの国を狙ってるとかじゃなくて、五年前、尻尾を切って逃げた奴らが既に王宮に目を付けて入り込んでたとしたら?」
「それなら何故、”物証”のような決定的な力を放置しておいたんだ?」
「スコットの最後の抵抗だと考えればどう? 五年前に追い詰められ、今度は自分が組織から見放されるときだと感じたスコットが、組織にとっても国にとっても打撃となるようなものを隠したとしたら?」


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