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幕間2


「ゲッシュ、聞いてくれるか」
 返事のない空に向かい、小さく語りかける。
「私は必ず約束を守る。だから、もう少し時間をくれ。トロイも、あと少しだけ」
 聞いているのかいないのか。本当はどうでもいいのかも知れない。ただ、酷く穏やかな気持ちの今、そう宣言したかったのだ。
 必ず、兄を解放すると。
 必ず、――自らの人生に幕を引くと。

 *

 男は、相手を見失った近辺を入念に見回っていた。相手は確かに恐ろしい男だ、と今更ながらに思う。尾行には慣れているはずの自分を誘い込み、見事置き去りにした。思わず追うことを忘れるほどの、身の毛のよだつような殺気を放つような男には見えなかったのに。
 敬愛すべき主が拘るわけだと今なら納得できる。だがその主の命令だ。草の根を分けてでも探し出すしかない。
 そうして歩く内に、男はある道端で強く眉根を寄せた。
「なんだ、これは……」
 地元の者ですら見落としそうな岩陰に、血に濡れた服が脱ぎ捨てられていたのだ。既に乾き、布と布をくっつけたまま丸まってしまっているが、殺されて身ぐるみを剥がされた不幸な旅人の衣装、というには些か不自然だった。
 仕立ての良いその服には他に何も残されていない。その服以外の何もない。
「これは……あの男の服に似てる」
 襟元に付いていた赤茶の髪も同じだ。
 可能性に、男の頭の中は混乱の渦を巻く。だがそれを鎮めるには、決定的に情報が不足している。何があったのかと考えることすら多岐に渡りすぎ、収集のつかない状態だ。
 やがて強く頭振り、男はその服を棄てて馬のもとへ戻る。
「とりあえず、死んではないようだし、そうすると治療も必要だし、……聞き込みかな」
 今後の方針をまとめるように呟き、男は近隣の町村を頭の中の地図に描いた。

 *

 乾いた風がカーテンを揺らす。
 枯葉を落とす庭の木を見つめながら窓の縁に手をかければ、奇妙な高揚感と眼下に迫る恐怖の鳥肌が立った。そのまま身を乗り出せばどちらが勝るのか、ふと沸いた疑問に片頬が歪む。
 冬というには些か高い気温、厚い室内着の下でうっすらと汗の滲む体、強い日差しをこのまま受けていれば、日に焼けるどころの問題ではなくなるだろう。それでも何故か、この場から離れられない。
 原因は判っている。目を閉じれば思い浮かぶ、それはまだ現実を受け入れられなかった頃に初めて見た風景と酷似しているからだ。
「――あなた」
 呟き、次いで引きつった嗤いが続く。長い髪が波打ち、レースのカーテンが強い皺を作った。掴むのが細い女の指でなければ、レールごと地に落ちていたかも知れない。
「奥様!」
 端に控えていたメイドが蒼い顔で悲鳴を上げる。だが嗤いは止まらない。
 馬鹿馬鹿しい。――なんて馬鹿馬鹿しい。
 色を落としていくばかりの木々、そんな儚い影の落ちる庭園で初めて会ったその男は、こちらを見つけるや端麗な顔に深い笑みを浮かべた。不安、恐怖、絶望といった負の感情を吹き飛ばすような衝撃。確かにその瞬間、彼の全てに魅せられたのだろう。だがどうしようもなく未熟で、どうしようもなく愚かな感情は、同時に自分がどれだけ汚い存在なのかを突きつけた。
「そうよ、……はじめから、駄目だったのよ」
「奥様?」
「今更、だわ……」
 そうだ、今更だ。もうどうにもならない。過去には戻れないのだ。
 だが、もう疲れた。諦観に至るには別の意味で彼の存在があだとなる。八方ふさがりで、先が見えない。
 倒れるように座った椅子が、短くも切ない音を立てる。俯き、額に手を当てれば細い腕が目の前でぼやけていた。
(ああ、――そうだわ)
 ひとつ、決着を付ける方法がある。
 思い、くっと喉を鳴らせば、メイドの怯えたような顔が視界の端に映っていた。

 *

 その部屋を担当していた男は、ふと、棚と壁の間に不思議なものが転がっているのを見つけた。
「……? なんだ、これは」
 拳より小さい鉄球だ。手を伸ばすがその隙間は狭く、あと少しのところで届かない。
 誰かの置き忘れか、棚のどこかから落ちたものか。いずれにしても放っておくわけにもいかないと、男は埃に咳き込みながら顔を上げる。
 そうして、棒でも差し入れて転がせばと思いつき立ち上がり、体を戸口へと捻ったところで目を見開いた。
「わっ」
 誰かが居る。慌ててテーブルの上に置いていたランプをかざし、次いで男は一歩後退った。
「……何をしているのかね?」
「い、いえ、片付けを……」
 別段やましいことはしていない。見つけた経緯を話し、これから棒となるものを探しに行くと伝えると、影はひっそりと嗤ったようだった。
「ほう、それは……、今ここに居たのは君だけかね?」
「ええ、そうですが……?」
「そうか、そうか。それは良かった」
 愉悦を含んだ笑い声に、男はただ疑問符を頭に浮かべた。そんな彼を見て、影は一歩距離を詰める。
「本当に、……良かったよ……」
「ミ、ミクソン様……?」
 至近距離、弓なりに曲げられた目と吊り上がった口角を目に、男は背筋に冷たい汗を流した。

 *

「旦那様、旦那様!」
 静謐と秩序、そうした厳粛な雰囲気の似合う廊下に、悲鳴のような声がこだまする。
「旦那様、お待ちを! 伝令を出します!」
「遅い!」
 一喝。だがその声と共に足を止めた偉丈夫は、年を感じさせぬ確かな足取りで従者の方を振り返った。
「旦那様、まだそのように歩き回られては」
「伝令では遅い。ヨークを呼べ」
「そのように。ですが旦那様はお戻りを」
「煩い。ひと月半も寝ておれば充分だ」
 肩には厚いガウン、その下の室内着からは真白い包帯が見え隠れしている。短く刈られた髪の、後頭部に残る傷も痛々しい。だが彼の眼光、真っ直ぐに背を伸ばした姿、立ち振る舞いは居るだけで他者を圧倒する支配者のそれだった。
「服の準備を。応接間を開放しておけ」
「……はっ、」
「ヨークが来るまでは誰も通すな。その後のことは追って指示を出す」
「は、はい!」
 行け、とは言うまでもなかった。言葉を切るや、従者が転がるように走り去る。見送る偉丈夫の口元にあるのは皮肉を帯びた苦笑だ。
 しばし立ち止まり、ざらついた顎に手を当てて宙を見る。そうして彼は呟いた。
「奴が姿を消したとなれば、急がねばなるまい」
 脳には溢れるほどの情報が整然と並んだ状態で詰め込まれている。多くの者が少しずつ持っているそれは、もとからある情報と絡み合い極めて複雑な様相を呈していた。だが、その殆どの意味を偉丈夫は把握している。
 予想外、または理解し得ないものがあるとすれば、それはまだ隠し持たれているカードでしかない。他の者が点の情報をして首を傾げていることは、彼にとっては考えるまでもないことだった。
 おそらく、混迷の内に皆を惑わせている一連の事件は、彼が出ていくことでその大半があっけなく片付いてしまうだろう。そして彼にはそれが出来る力もある。
 だが、彼は動かない。――否、動いてはいけないのだと苦笑する。教え導くのでは駄目なのだ。
 ――彼らは気付かなくてはならない。考えなくてはならない。そうして、選び取らねばならない。
「儂にはもう、決定権はないのだからな……」
 残されているのは助言を与えること。けして頼られてはならない。点と点を結ぶ線は彼らが見つけなくてはならない。
 その思いを最後に偉丈夫は、難しいものだと呟いて踵を返す。
 彼が向かうは表舞台。十数年前に友が涙を飲み、五年前に悔恨を残した、華々しくも恥ずべき場所。
 彼が見るはこの国の未来。瞼に映るはひとりの影。
 胸の裡に巣くう激しい思いを厚い殻で覆い、彼は彼の望まぬ場所へと進み行く。


 そしてその年の11月は、波乱と期待の産声とともに始った。


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