[]  [目次]  [



(だとすれば、まさかあの男は)
 レスターを探っているというベルフェル人だとすれば、考えられることがある。
(近くにいるのかも知れない)
 だが現状、すぐに周辺を捜すという行動に移ることができない。まずは後を追う人間をどうにかせねば、とクリスは逃げ込む場所を考えた。幸い身体能力にさほど違いはないのか、今のところそれなりの距離は保ったままではあるが、いつまでそれが続くのかは判らない。正直に言えば単純に逃げ切る手段は幾つか思いつく。しかし、一方的に襲われ続けるのは如何にも癪だった。
 折角一対一になったのだ。出来ることなら捕らえて尋問にかけたいところである。
(だとしたら、あそこか)
 とは言え、クリスティンの剣術はけして過信できるほどのものでもない。その場にあるものを最大限利用して卑怯な手で相手を出し抜く、そこに一片の迷いもない彼は相手を攪乱できそうな場所に見当を付けて走る速度を上げた。
 およそ一分後、目的の場所へたどり着いたクリスは、記憶と闇になれてきた目を頼りに更に奥へと進んだ。僅かに遅れて進入した追っ手は、行く手を阻むように林立する石の壁を前に一瞬立ち止まったようだった。
「……墓場か!」
 低くくぐもった声を舌打ちと共に吐き捨てる。なんとなしに予想していたことではあるが、王都に住む一般的な街人ではないのだろう。もしかそうであるとすれば、城壁と門の位置関係からとうに墓地であることを把握していてもおかしくはなく、悪態を吐くこともないからだ。
 クリスにとっては母親と自分の肉体の眠る地、何度も通ったことのあるこの場所の特徴はおおよそ把握している。当然足下が危うい場所も迎撃しやすい場所も、入り口からの距離さえ見誤らなければ間違うこともない。
 油断だけはせぬようにと慎重に相手を誘導し、思った場所でクリスは足を止めた。
 直後、襲い来る鋭い切っ先。ここでやられたら皮肉だな、と嗤い、クリスは迫る刃を弾き返す。それから数度、雨の中高い音が響き渡った。
「ちっ……」
 何度か足下の微妙な段差に躓きかけたところで、形勢の不利を悟ったのだろう。再び舌打ちをし、敵は距離を取る。そのタイミングを狙い、クリスは大きく一歩詰め、些か無理な姿勢から剣を大きく横に薙いだ。
 狙いも定まっていない大振りな攻撃を、敵は当然のように避ける。段差を警戒してか、整然と並ぶ墓石の間を縫うように横に逃げたようだ。反対に足下に注意を払わなかったクリスが、空振りの勢いそのままに大きくよろめいた。
「――っ!?」
 だが次の瞬間、倒れたのはクリスではなかった。木々の裂ける音と共に息を詰めた悲鳴が雨音に混じり響く。
「な……、んだ、これは!」
「薔薇のアーチの成れ果てだ」
 改めて剣を喉元に突きつけたクリスは、安堵を隠した冷ややかな声音で告げる。
「そのあたりは踏み磨かれた石畳があって滑りやすいんだ。この墓地でも古い区画でな。目印はお前が凭りかかっている小さな薔薇のアーチ」
「な……」
「足下の悪い道を上ってきてもらったからな。いつかは横に逃げてくれるだろうと思ってたが、まさか一回で上手く行くとは思わなかった」
 死者への慰めを罠の目安に使うとは罰当たりだが、と嗤いつつ、クリスは更に剣を突きつけた。
「目撃者を問答無用で殺しにかかるとは、随分だな?」
「……」
「さて、話を聞かせて貰おうか?」
 このときクリスは、気を抜いていたわけではない。逃亡や反撃に備えての注意は充分に行っていた。故にその可能性に気付かなかったのは、実戦の経験不足によるものと言えるだろう。
 敵はクリスの言葉に目を見開き、次いで口元に笑みを刷いたようだった。
 そして、彼は勢いよく身を起こす――
「!」
 墓石や下草、古い石畳が、雨よりも重く雨よりも鮮やかな色彩のものを浴びて濡れた。同時に傾いだ体が泥水の中へと沈む。
 咄嗟に剣を引いたクリスは、その重さに引き摺られることなく、しかし色の変わった刃を見て喉を鳴らした。何が起こったのか、数秒遅れてようやく結論が脳へと巡る。
 敵だった者の体はぴくりとも動かない。恐る恐る確認はしたが、やはり完全に事切れていた。
(死んで自ら口を閉じる、か)
 クリスを追っていた時の様子からして、けして物語に出てくる暗殺者のように特別に鍛えられたといった存在ではなかったのだろう。だが、最期の覚悟だけは相応のものを持っていたようだ。
(組織が攪乱用に使っていたチンピラとは違う……)
 得物はクリスのそれよりも太く短い剣だ。正直なところ、間合いの短い武器をしてあの足場でよく戦えていたと感心する。まともに正面から戦っていたとすれば五分五分か、経験値の差でクリスの方が危うかった可能性も高い。
 サムエル地方の屋敷で襲ってきた一団を思い出しながら、クリスは死体の服や携行品を漁った。暗さに判別はしにくいが、服装にさして特徴はない。懐にあったのも小銭程度、あとは水の入った革袋といったもの。さすがに、身分を証明するようなものは持ち歩いていないようだ。
(まぁ、そうだろうな)
 その結果よりも、生かして捕らえる事が出来なかったことへの落胆にため息をこぼしながら、クリスは念のためにと墓地の丘を駆け下りた。入り口の横には少しばかり休憩できる小屋があり、そこに固定のランタンが備えられている。さすがに暗すぎると判断したクリスは、それを利用することにしたのだ。幸い、僅かではあるがオイルも残っていた。
 苦労しながら計三つに火を付け、扉を開け放ったままの状態で再び死体のもとへ戻る。お世辞にも明るいとは言えないが、少し引き摺って位置を変え、顔を小屋の方に向ければ判別できないというほどではなくなった。
 その位置で固定し、正面に回り込み、クリスは強く眉根を寄せた。
 ――どこかで、見たことがある。
(だけど、どこで……?)
 人の顔を覚えるのは比較的得意な方と自負しているが、どうにも思い出しきれない。これまでの状況や襲われた場面が頭の中に展開されていくが、どこにも今見ている顔はなかった。むろん、表情の有無などで印象が変わっているという可能性もある。
 しばらく悩み、しかし答えを導き出せなかったクリスは、緩く頭振って立ち上がった。戻ったら警備兵に死体の回収を依頼せねばと考えつつ、正体を探るための品として一風変わった武器だけを回収する。
 そうして改めて通用門へ向かうべく、踵を返した時。
「……?」
 丘の上の方に不自然な発光物体を見つけて、クリスは反射的に振り向いた。ランタンの灯りとは全く違う、光それ自体が浮遊しているようなそんな妙な存在だ。僅かに勢いの弱まった雨粒を映し出し、誘うように光は点滅を繰り返す。
 むろん、それに見覚えのあるクリスは、慌ててその方へと走り寄った。
「ゲッシュ?」
 墓地の古い方面へ何かを捜すように無軌道に漂うそれは、しかし呼びかけに何の反応も返さない。訝しげに首を傾け再度口を開いたクリスは、ふと違和感に眉を顰めた。


[]  [目次]  [