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21.


 屋根から落ちた滴が、陽光を弾きながら窓の外枠を叩いた。昨夜雨を落とした雲は午前中に去り、今は緩い光が地上を照らしている。
 塀の向こう、水たまりで遊ぶ子供達と彼らを叱りつける母親の姿をなんとなしに見つめていたクリスは、窓とは反対側の廊下から響いた音にゆるゆると顔を上げた。
(もうそんな時間か)
 在室を問う声にどうぞと返し、窓際に寄せていた椅子から立ち上がる。躊躇いがちに開けられた扉の向こうには、約束していた相手がもうひとりと連れて立っていた。
「昨日も遅くまで待っていただいたというのに、本当に済みません」
「いえ。助けていただいた上にお邪魔しているのはこちらです。――それより、後ろの方は」
「ええ。こちらは――」
「イサーク・ギルデンだ」
 聞く者を従わせるような低く重い声に、クリスは反射的に敬礼を取っていた。予め聞いていなければ、身動きすら取れなかっただろう。クリスなど一生会う機会もなかったはずの、言わば「世界が違う」人物である。同じ国に属する人間でないことを思えば、法務長官よりも緊張の度合いは強い。
 イサーク・ギルデン。四年前の三国同盟戦争でイエーツ国北方に悪夢を見せたベルフェルの将軍で、ぎょろりとした目が特徴の偉丈夫である。ギルデンの名は、軍職に就く者であれば一度は聞いたことがあるというほど有名だ。北方の砦を攻め立てた際の苛烈さで破壊の象徴とされているが、一方で停戦の呼びかけに真っ先に応じるような柔軟な思考も持ち合わせていると、冷静に戦争を把握できる者の間では評価が高い。
 現在はベルフェルの南方の拠点を持ち、イエーツへの外交を一手に任されているという。
「部下から報告は受けているが、やはり自分で見なくては気が済まなくてな」
「いえ。――挨拶が遅れて申し訳ありません。私はクリストファー・レイと申します。昨晩は友人の為にご助力いただきありがとうございました」
「気にしなくて良い。こちらのことも把握しているようだからな」
 鋭い目に含みを持たせ、ギルデンはクリスの前に立つ。
「回りくどい駆け引きは好まんが、立ち話で済ませることでもあるまい。まずは席につきたまえ」
 挨拶の間に窓際の椅子は戻され、ギルデンの従者である青年はその横に移動していた。ギルデンの促しに応じ、クリスはその椅子に再び腰を下ろす。
「昨晩はよく休めたかね?」
「はい、様々に手配いただきありがとうございます」
 ここは、諸外国の代表が集い開催された会議に際し迎賓館の代わりとして借り上げられた、王都にある格式高いホテルの一室だ。会議が終わり滞在理由もないはずのギルデンが休暇と称して居座っているために、未だワンフロアが開放されないままになっている。
 その気になればホテル側からのサービスを受けることも可能なのだろうが、昨日レスターが運び込まれて以降、クリスは医師以外の者の姿を一切目にしていない。夕食も朝食も、ギルデンの従者である青年が自ら運んでくれたのだ。それを部屋からは出るなという無言の圧力と受け取ったクリスは、濡れた服の替えだけを用意して貰った他はずっと相手の出方を待ち受け、今に至る。
 クリスも共に監禁しているというよりは、単純にレスターの様子を見続ける人材がいないための措置なのだろう。三階とはいえ表通りに面した窓からは逃げようと思えば不可能ではなく、誰かが監視しているという様子もない。部屋の隅のベッドで眠り続けるレスターに、某かの拘束を加えようとする様子すらなかった。
 置かれている現状から察するに、おそらく、ベルフェルのふたりには、レスターへの特別な害意などはないのだろう。某か用があり、密かに接触する機会を窺っているうちに逃亡劇に巻き込まれたといったところか。
 そうした探るような思いが顔に出ていたのか。ギルデンは口元に獰猛ともとれる笑みを刷き、椅子の背を鳴らした。
「単刀直入に聞くが、あの男にあそこまでの怪我を負わせたのは何者だ?」
「わかりません。が、単純に考えるならば、おそらくは複数の国に拠点を持つ人身売買組織の一員かと」
「ほう。しかし今イエーツは国を挙げて組織の者を追っているのだろう? あの男だけが執拗に狙われる理由が判らんのだが」
「それは、本当に私も判りません。彼がどういう立場なのか、どういう思惑を持って動いているのか……。正直に申し上げますと、彼が何故姿を消したのか、何をやっていたのかも判らないのです」
 掛け値なしの本音に演技を混ぜる必要もないまま、クリスは深々とため息を吐いた。
「昨日も、情報を集めて隣町へ行った帰りに偶然発見出来ただけのことなのです」
「まぁ、そうだろうな」
「と、言いますと?」
「お前達が我々をベルフェルの者だと知っても驚かなかったのは、そういう情報がお前達の間で出回っていたということだろう?」
「……一部の間では、ですが」
 事実をして訂正すれば、ギルデンは軽く頷いた。そして後ろに控える従者に一度目を向け、腕を組む。
「こいつはずっと、あの男の後を付けていた。見失ったのは先月28日だ。場所はこの国の西部、――確か、サムエル地方と言ったか」
「! それは、本当ですか!?」
「本当です」
 答えたのは、気配を殺すように立っていた青年の方だった。
「あの方自身が何かを追っているようでした。私は私の用で接触を試みたのですが、周囲全てに警戒されていたようで、そのうちに撒かれてしまいました。次に発見したときにはもう、知らぬ誰かと一戦交えた後のようで、既に怪我をしていました」
「それは、どこでしたか?」
「西の街道を離れた小道でした。場所からすると、王都へ戻ろうとしていたのだと思いますが、その後も何度か見失い、その間に何があったのかはわかりません。昨日は、おそらくはあなたと同じでしょう。町の施療所での話を聞いてから王都へ戻る道を歩いている内に、何者かに襲われたという次第です」
 言い、横から言葉を入れたことを詫び、青年は口を引き結ぶ。本来であれば黙って立っている事が推奨される立場なのだろう。であるにも関わらず詳細な内容を告げてくれたのは、彼なりの恩返しのつもりか。危機的状況で助けの手を入れたことがあってか、クリスを見る目が柔らかい。
 ギルデンはと言えば、従者の勝手を咎めることもなく、ただ小さく肩を竦めただけのようだった。
「要点を言えば、我々はあの男を害してなどいない。本来であれば、仕事の最中に少し席を外して貰う程度で済んだはずのことだ」
「ですが閣下は、何故レスターを追ってまで招聘したかったのでしょうか?」
「昔話を、と言えば信じるか?」
「信じます」
 即答に、さすがにギルデンも面食らったようだった。何度か瞬き、疑わしげにクリスを見遣る。
 主従揃っての二対の視線を受け、クリスは小さく苦笑した。
「『昔話』の内容を信じるとは言っていませんが」
「……なるほど」
「閣下とレスターの接点は、四年前の戦争の時のみのはずです。私はその戦場の詳細までは知りませんが、失礼ながら、彼の手によって少なからぬ打撃が加えられたとは聞き及んでおります」


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