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 鎮まれと命じながら、クリスは一度目を閉じて深く息を吐き出した。
「それなら……」
 そうして眉を寄せ、慎重に言葉を紡ぐ。
「それなら何故、お前は俺に『大丈夫か』などと聞いたんだ」
「? 何のことだ?」
「墓地で見つけたとき、そう言った」
「――!」
 怪訝そうに、しかし驚いたようにレスターは目を見開いたようだった。
 だがそれも刹那のこと。瞬きの間に彼の表情はその前と同じ、柔らかそうで実は捉えどころのない落ち着いたそれへと戻っていた。
 見間違いだったのか、そう疑問に思いながらクリスは重ねて問う。
「なぁ、何故だ?」
「単に、そのままの意味だろう」
「?」
「私が特捜隊の一員として襲われたんだ。君たちに何があってもおかしくはないだろう?」
「だが!」
「クリス」
 ふ、と今度は表情さえ消し、レスターは僅かに眼を細めた。
「クリス、真摯に向き合えば誰もがそれを受け取ってくれるとは限らない。心から思いやって問えば誰もが応えてくれると思うのは傲慢だ」
「!」
「誰にも何も隠すことなく生きていけるとすれば、それはとても幸せなことなんだろう」
「――」
「隠していることを曝くのは簡単かもしれない。だが曝いた者に、隠し始めてから現在に至るまでの思いや葛藤は、果たして判るものか?」
 目元にはほんの僅かな険、しかし表面上特に激した様子もなく、レスターは淡々を感情を乗せない声音で告げる。
「それでも隠した中身を知りたいのなら、クリス。こじ開けるだけのものは用意しろ。ただ君を満足させるためだけに洗いざらい話せるほど、私はお人好しじゃない」
 静かな声だ。だがそれが余計に反論を封じている。威圧感というよりも無。拒絶よりも尚強い、他者の干渉をすら透過させる虚無がレスターを取り巻いているようだった。
 不十分なのだ。クリスの持つ情報や証拠だけでは、彼の口を開かせることは出来ない。サムエル地方の館から掘り起こされた何かについても、状況的にあり得るというだけで彼の仕業であるという証拠は何一つないのだ。北部戦役での内通の疑いについても同様だ。後者に至っては、当事者ですらなかったクリスに扱いきれる内容でもない。
 唯一、王宮の勢力に繋がっているということだけは認めたが、――と思い、クリスは僅かに青ざめたまま、試すような問いを口にした。
「では、レスター。お前の義父やセロン・ミクソンが組織と通じていたとしたら、お前はたとえそうと知らなかったとしても、大人しく罪に連なるのか?」
「知らなかったとしても、犯罪の片棒を担いでいたとなれば当然だろう」
 声に、揺らぎはない。そうか、とクリスは長い息を吐く。そして、これ以上の追及が何も生み出さないだろうことを悟らざるを得なかった。
 短い沈黙の内にレスターがその身を倒す。
「すまないが、少し疲れたようだ。眠っても良いか?」
 被害妄想でなければ、それは一種の拒絶なのだろう。これ以上話すことはない、という意思表示だ。
 否と言えるわけもなくクリスがただ頷けば、彼はそのまま目を閉じた。

 *

 夕刻。外出から戻ってきたギルデンにレスターが目覚めた旨を伝え、クリスは三日間過ごしたホテルを後にした。数歩歩いて振り返り、一度だけそれまで居た部屋の窓を見遣る。だがそこに勿論人影はなく、ただ斜めに走る橙の陽が緩く反射しているだけだった。
 敵にも成りうる隣国の軍人ふたりのもとに仲間をひとり残す事は、あまり褒められた選択肢ではないとは判っている。だがレスターがはっきりと目覚めた以上、実質クリスが傍についている必要性も理由はない。ベルフェルのふたりは居てもいなくてもどちらでも構わないという姿勢だったが、肝心のレスターが壁を作っている状態でそこに居座っていられるほど、クリスの肝は太くなかった。
(とりあえず、レスターの無事は伝えなきゃいけないな……)
 その際少なくともダグラスとヴェラには、あれこれ意気込んでいた割に何も聞き出すことができなかった事実は伝えなくてはならない。そう思えば如何にも気は重いが、これ以上報告を遅らせるわけにもいかないというのが現実だ。ベルフェルのふたりを警戒して目覚めるまでは傍を離れるわけにはいかなかったという理由を引いても、連絡を入れなかったことに対し説教の一つくらいは免れ得ないだろう。
 ため息を吐きつつ、クリスは帰途へ着く人々の間を逆行しながら行政の区画へと足早に歩を進めた。静かな場所というだけあって、ホテルは王都の中でも中心部とは離れた位置に存在する。直線距離としてはさほどのものでないとしても、実際には王家の所有林などを大きく迂回する必要があり、クリスの足を持ってしてでも到着に一時間以上はゆうにかかってしまうのだ。
 閑静な区画を抜け、小さな家の建ち並ぶ住宅区を過ぎ、普段通ることのない公園へと足を踏み入れる。外縁に沿って進むよりは横断した方が早いのだ。
 だがそうして特に大きな理由もなく、葉を落として枝ばかりとなった木々の間を抜けていたクリスに、思わぬ方向から声がかけられた。
「クリス? クリストファー?」
 低めの女の声だ。聞き覚えがある。――つまりは、クリスティンとも共通の知人ということだ。
「やっぱりクリスじゃない。……久しぶり」
「――モニカ」
 散歩にでも出ていたのか。小さな鞄だけを肩から提げた若い女性が、目を細めてクリスを見上げていた。
「元気そうじゃない」
「ああ、……まぁ、それなりには」
 最後に彼女、モニカ・ストーンに会ったのは二ヶ月と半月ほど前の夏の盛り。思い出すのは子供を抱いて微笑む姿で、クリスティンは友人達と共に彼女と新しい命を存分に祝ったものだ。
 そしてその後、事故が起こった。
 正直、どんな顔をすればいいのかが判らない。クリスティンとしては親しい間柄であったものの、幸せな時期に招待客が家の前で事故死という形で水を差してしまったという負い目がある。加えて、クリストファーとの微妙な関係の一片を知ってしまった今、対応に困る相手のひとりとなってしまっていた。
 事故現場を見ていたはずのモニカには一度会いに行かねばと思っていたにも関わらず、今までそれが実行に移されることがなかったのは、周囲の思惑の他にそういったクリス自身の感情が抑止をかけていたということもあるのだろう。
 そして今、その思いを可能な限り外に出さないようにと努めながら、クリスは無表情を装ってモニカの前で立ち止まった。
「どこか、行く途中か?」
「ええ。アントニーと待ち合わせ。カレンとマークのことで相談があって」
 アントニーと聞いて微妙に顔を強ばらせたクリスに、モニカは困ったような笑みを向ける。


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