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22.


 向かい風に阻まれながら街を走りきったクリスたちを出迎えたのは、ユーリアンの蒼褪めた顔だった。綺麗に撫でつけられていたはずの髪が乱れ、額に疲れた様子が滲んでいる。
 見る者の目を奪う瀟洒な造りの屋敷、しかし漂う空気は相変わらず重い。
「何があった!?」
 静まりかえった、しかしどこか掻き乱された空気の残る家を見て、クリスは悪い予感に頭を白くさせた。右手を心臓の上に置き、悼ましそうな表情のユーリアンが自らを落ち着けるように一度目を瞑る。
「先ほど旦那様が戻られました」
「!」
「ですが奥様と激しく言い争われた後、すぐにまた外へ」
「どこに!?」
「レイ殿、落ち着いて」
 意気込み、前のめりに問うたクリスを横から制し、ミハイルがユーリアンの注意を引く。
「どうやら、この家の方々はエルウッド殿の行き先を追っている状況にはないようです。医師がお見えになっていますね? どなたか怪我を?」
 冷静なミハイルの声にクリスははっとして周囲を見回した。そう指摘されれば確かに、玄関を入ってすぐの場所に幾つかの医療道具が散らばっている。
 二対の視線を受け、ユーリアンははっきりと頷いた。
「旦那様はお戻りになった際『必要なものを取りに来た』とおっしゃいました。その後自室から何かを持ち出されたようですが、何であったのかは存じ上げません。ただ、そうして再び外へ向かおうとなさった時、奥様と言い争いになったようです」
「伝聞調だが、直接は見ていないのか?」
「はい。旦那様の言いつけで服を揃えておりましたもので」
「そうか、すまない、続きを」
「はい。口論はそう長くはありませんでした。ただ慌てて私がここへと走り、到着した頃には奥様は床に伏していらっしゃいました。そのまま旦那様は私から服を奪い取り、外へと走り去っておしまいに」
 見たところ、血の流れた様子はない。殴打か何かで気死したのかと問えば、ユーリアンは首を横に振った。
「奥様は自ら毒を」
「!?」
「すぐさま医師を呼びに走らせ、解毒の処置は行いましたが……」
 言葉を詰まらせたユーリアンの様子を見るに、状況は芳しくないということだろう。それ以前より若干衰弱傾向にあった、もとより体力のない女性である。解毒の処置が間に合ったとしても条件は悪い。
「しかしそうなるとレスターは、妻が服毒したことを知りながら出ていったということになるが」
「その通りでございますが……実は奥様には何度か虚偽の自殺未遂があり、今回もそうと思われた可能性が高うございます」
「そうか。しかしそれだと」
 尚更連れ戻さねばならない。クリスはミハイルと視線を交わし、互いに頷きあった。
 何を言い争ったのか。何を持ち出したのか。気になることは他にもあるが、それを推測している時間はない。むしろここから出ていったレスターがどこへ向かったのか、それを考えなければならないのだ。
 二階から医師によばれたユーリアンと別れ、クリスは頭を捻る。何かを取りに来たのであればそれを届ける先があると言うことで、つまりは行き先が固定されるということだ。今は追っ手もいない以上、レスターは真っ直ぐにそこへ向かうだろう。
「レイ殿には心当たりが?」
「というよりは、レスターの所属しているところを考えれば、の話だが。届けるとすれば王宮か……」
 レスターに直接指示を出していると思われるのは義父であるウィスラーだが、妻との冷えた関係を思えば、有益な情報なりを彼に真っ先に届ける可能性は低いだろう。そうなると、残りは王宮の誰か、具体的にいえばセロン・ミクソンあたりか。以前から家に置いてあったものをなぜ今更という気もするが、今回の行方不明の間に某か得るものがあったとすれば別段おかしいというほどの話でもない。
 結果として先行したアントニーとほぼ行き先が被るということになるが、他に思いつく場所がない以上、ひとつひとつ可能性を潰していくしかない状態である。だがそれでも完全なる行方不明とされていた数日前を思えばまだましだと、クリスは発破をかけるように自らの頬を両手で叩いた。
「どうする? ここで別れるか、一緒に王宮の方へ行くかだが」
「失礼ですが、王宮へ入る伝手はあるのですか?」
「ない、が、レスターは目立つ男だ。その辺りで姿を見かけた情報ぐらいは取れるだろう」
 はっきりとした目撃証言が取れたのなら、キーツなりに連絡をすれば手段が得られるはずだ。
 言えば、ミハイルは納得したように頷いた。
「では、今しばらくは同行させてください」
 クリスが承諾し、ふたりは再び暗さを増していく街を走る。

 *

 ――じわじわと闇の広がりつつある王都。一望できる丘の上から見れば、人工の光がぽつりぽつりと灯りはじめているのが判るだろう。
 そんないつもの光景の中、それが起こったのは、無言のままにひたすら走り続けるクリスたちが正に目的地へたどり着くほんの少し前のことだった。
 ドン、と始めにくぐもった音。周囲の人々も何事かと顔を上げる。だが、周りに変化はない。
 その戸惑いばかりの表情が揃って引き攣るのは数秒後。再び、否、前以上に大きな低い音が響き渡った直後、それに相反するような甲高い悲鳴と黒い煙が離れた場所から立ち上った。
「あの方角は……」
 真っ直ぐに見れば財務省関連施設の並ぶ区画だ。一般人もよく利用する役所が狼狽える人々の間からもう見えている。
 だが煙はその更に後方、音の大きさからしてももっと遠い。
「王宮……!?」
 誰かが大きすぎる呟きを発した。同時にその可能性に思い至っていたクリスはぎよっとして体を震わせる。隣にいたミハイルには、それが肯定のように映っただろう。
「行きましょう」
 響いてくる混乱した声と煙に恐れを成した人々が、相当に離れているにも関わらず逃げ去っていく。その流れに逆らいながらクリスは役所の中へと向かった。
 中は更に混乱している。逃げるよう呼びかける職員と逃げてくる人の間をかいくぐることは至難だったが、奥へと入ってしまえば逆に閑散としていった。やはり、財務省の施設自体に破壊された様子はない。
(王宮? でも何故)
 疑問が頭の中をぐるぐると回る。むろん、答えなど出るわけがない。だがそれでも考えずには居られなかった。


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